視覚障害児時代の経験からヒントを得た多様性への思い
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2021.11.30
私は生まれつきの視覚障害者で、現在は両目の視力と視野が0の全盲です。しかし、10歳ごろまで、視力が弱い、いわゆる弱視として生活をしていました。今回のコラムでは、私が多様性について考えるきっかけになった、生まれてから盲学校小学部へ入学するまでのことについて書かせていただきます。
執筆:小川 誠
はじめに
私は、生まれて間もなく緑内障と診断され、5歳まで視力は弱かったものの両目とも見えていました。
現在はほとんど症状が出ないものの、当時は眼圧上昇と激しい頭痛に悩まされていました。5歳で目の手術を行い、左目を失明、右目の視力が0.03程度、視野はほぼまっすぐ前しか見えない状態となりました。
例えば塗り絵をしようとしても、線が細くて見えにくく、片目しか見えないので距離感がつかめず、色を塗っていてもいつの間にか線からはみ出てしまいました。歩いていてもあちこちにぶつかり、おでこにたんこぶを作っていました。
子供のころは「片目しか見えないとどういう感じになるか」が分からなかったので「見えているはずなのに、なんでぶつかるんだろう。」と思っていました。
見え方も毎日一定ではなく、比較的調子が良いときもあれば、何か目の前に薄く霧がかかったような日があるなど様々でした。
保育園時代で人の温もりと闇を知る
5歳まで入院と治療に明け暮れていた関係で、保育園に入ったのは6歳のときでした。
当時、障害児を受け入れてくれる保育園がなかなか見つからず、近所の仲の良いお母さんから、その子供が通う保育園に話をしてもらったところ、受け入れてくれることになりました。
この保育園時代は、人の温もりと闇の両方を経験することとなりました。当時のことが深く心の中に刻まれ、社会人となった現在の私に多様性を強く意識させるきっかけになったのではないかと思うのです。
5・6歳の年齢になれば、目があまり見えていない人のできること・できないことがなんとなく分かってきます。
砂場でみんなで遊ぶときには、足を入れる前に「でっぱっている所があるから気をつけてね(砂場の枠のこと)」と教えてくれたり、お絵描きをしていてクレヨンを落としたときにも私が床につきそうなくらい顔を近づけて探していると、すかさず友達が駆け寄ってきてクレヨンを拾って手渡ししてくれました。
このような助けがあったおかげで、どうにか卒園まで通えたのではないかと思うのです。「子供たちの間でも助け合いの精神が生まれるものなのだ」と思います。
闇の部分と言えば、私の目があまり見えないから追いかけてこられないだろうと、いろいろとはやし立てられたりもしました。相手の思惑通りにはなってしまいましたが、親切な友達に恵まれていたこともあり、「全体的には幸せだったのかな」と思います。
記憶をたどると多様性のある空間だった
私が通っていた保育園には、障害児だけでなく、外国籍の子供も何人か通っていました。
保育園側が方針として多様性を推し進めていたかどうか分かりませんが、同じ空間に障害児などが入っていても特に違和感なく過ごせていたと思います。というより、幼児年齢くらいの子供たちの間ではそこまで意識することはないのかもしれませんが…。
この経験によって、その後の人生の中で自分と違う障害者や外国籍の人と出会っても強く意識しないでいられるのかもしれません。
まとめ
当時、私の家族は、盲学校の存在を知りませんでした。
地元の小学校にも見学に行ったようですが、「ついて行けなさそう」という感触で断念したようです。その後、役所で相談したところ、盲学校への入学を勧められ、申し込み期限にぎりぎり間に合い、入学することができました。
生まれてからの7年間は、目の治療の期間でした。
その中でも、保育園の子供たちだけでなく、近所の子供たちとも遊びました。先天性の視覚障害者なので、通常の視力と視野を経験したことがないため、友達と遊んでいて「そうだ、自分の目は見えにくい状態なんだ」と気が付くという感じでした。
キャッチボールをしていても、相手がボールを投げたということはわかるのですが、距離感がつかめないので顔に直接あたることがよくありました。そのような状態が分かると仲間外れされることもありましたが、いろいろと遊びの工夫をしてくれた友達も存在しました。
数年前から始めた SNS で、多様性を強く意識するようになったのですが、もしかすると幼少時代の経験がそのきっかけにつながっていたのかもしれないと思うのです。
当時私と遊んだ友達が様々な立場の人たちのことを意識して日々を生きているかはわかりません。ただ、私自身は、今の子供たちにも様々な立場の人たちとの交流の機会を作って、多様性を体から学び、今後の人生の中で生かしてもらえるように伝えられればと思っています。