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決断力とはなにか。能動的でも受動的でもない人生の選択について。

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2022.3.15

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。今回のテーマは「決断力」について。これまで多くの選択肢を与えられることがなく「なるようになった」というのが実感だった(決断とは言えない気がする)のだが、改めて深く考えてみると、能動的でも受動的でもない、その中間の大切さに気づいた。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

「決断力」について書いてください、と担当編集者からの依頼があり、自身の経験を振り返ってみた。みなさんはどうだろう?

決断とは「きっぱり決めること」「意志をはっきりと決定すること」ととあるが、あのときあんな決断をした、あれは英断だった、これは失敗だったとはっきり言える人もいるかもしれないし、そうではない人もいるかもしれない。例えば受験。就職。結婚。日々の生活や学業・仕事の中でも、私たちは選択を迫られ続けている。

私の場合は、どうにも「決断する」という場面は少なかったような気がした。そもそも、あまり多くの選択肢を与えられることがなく「なるようになった」というのが実感だ。

というのも、大学受験、就職・転職活動は貧困や障害が障壁となってうまくいかず、ベストよりもベターな選択、もっと言えば最悪の事態だけをどうにか避けると言ったような、目をつぶって飛び込むしかなかったことばかりだ。


特にフリーランスになってから、能動的に仕事を取りに行くということが出来ずに悩むことがあった。定職はなく、単発の仕事の依頼が来るのをただ待っている状況が「受動的」であるように思え、それがよくないことなのではないかと不安だった。

それを同じ障害を持ち、同じくフリーランスとして活躍する先輩に相談したことがある。彼は、来た仕事をしっかり打ち返して実績を積み上げるだけだと朗らかに言った。「そうすれば次の仕事はかならず来るから大丈夫。安心して頑張るといいよ」、と。

果たしてそうなのだろうか?

実際には何の約束も確約もないのだから、彼の場合において結果論としてそうなっただけではないのか?と疑い深い私はつい疑問に思ってしまったのだが、その後、「中動態」という概念を知って合点がいった。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


私たちは、すべての行為を「能動態/受動態」、つまり「する/される」で二分しがちであるが、能動態でもない、受動態でもない「中動態」というものがあるらしいのだ。

例えば、私たちは「今度就職することになりました」という言い方をすることがある。就職は自分の意志でするもののはずで、この場合「今度就職します」という能動的な言い方でもいいはずだ。また、「することになった」という言い方は「就職させられた」という受動の形とも異なる。

これがまさに中動的な言い回しに当たるらしい。「自らがそうした」ことを「おのずからそうなった」という受け止め方をする。そこに意志があるかどうかは問題としていない。

ところで、意志とはなんだろう。

いつもお世話になっている行きつけの喫茶店のマスターは、喫茶店を開く前は地元の大手企業で29年もの間、働いていた。よっぽどの意志の硬さで就職を決断したのかと思いきや、ちょうど大学卒業の頃に大病してまともな就職活動が出来ずに親のコネで入社したらしい。

親から「3年は勤めてくれ」と言われ、そのうち自分のやりたいことを改めて探そうとぼんやり考えていたそうだが、早くに結婚して子供が生まれ、会社でも責任のある仕事を任されるようになり、日々をこなしているうちに、気がつけば29年もの時が経っていたというのが実のところだと聞いた。

だからといって仕事を「やらされていた」というようには感じておらず、それなりの責任感を持って仕事に打ち込んでいたそうだ。

「自分にとって常にベストな選択をしていたかと聞かれれば、そうではないこともあったかもしれないが、けして自分の意志に反して生きてきたつもりはないよ。全ては必然の連続だったと思う」と話してくれた。

決断とは案外、そういうものなのかもしれない。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


私たちが生まれる時、自分の意志で生まれてきたわけではない。10代の頃は、思い通りにならないことがあるたびに、生まれてきたくて生まれたわけじゃないのにと親を恨んだこともあったが、今は生まれてきたこと、生きていることをとりあえず肯定的に認め、思い通りになろうがなるまいが、結果を受容している。

決断力とは、諦める力、結果を引き受ける力だ。

今ここにいる自分を思う時、今までの経験はすべてがかけがえのないものであり、必然だと感じる。

実際、私の暮らしは綱渡りのようで、常に受け身の態勢であったが、けして何か「やらされている」というふうではなかった。身動きがつかない中でも、現実を引き受け続けていれば大丈夫なのかもしれないと、今では思えるようになってきた。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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