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「障害者」という言葉以上の重み

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2022.3.23

身体に障害がある。
これは言葉の短さとは裏腹に、日常は簡単ではありません。

簡単ではない中で、一番初めに訪れる集団生活である、幼稚園や学校に通うこと。
障害者の場合って、特別なところへ通うイメージですか?

でも私は、家から近い地元の場所へ行きました。

執筆:山口 真未 Mami Yamaguchi

突然ですが、質問です。

学校生活の中で、障害者の友達はいましたか?

これは障害者の方も、障害者の当事者ではない方も、少し思い出してみてください。

おそらくNOと答える方が、多いかと。
実は、障害者の私自身もそうです。

その理由は障害者という存在自体、数が少ないこと。
もう1つ、障害者は特別な学校、いわゆる支援学校等に通うことが多いため、出会う機会が少ないのかなと思います。

そんな中で私は、地元の幼稚園や学校へ通いました。
これには両親の想いが強く、反映されてのことです。

普通の幼稚園・学校に通う、という決断

私自身は、2歳の時に障害者だと、判明しています。
たとえ治療法がなかろうと、それを知ることがスタートであることは間違いありません。

ただ知ったからこそ、将来を考えるのも事実。
そこで両親の決断は「特別な学校へは行かない」でした。

深い想いまで尋ねたことはありませんが、遅かれ早かれ健常者の中で、障害者として生活する。
「その時に少しでも対処法を身につけること」に重点を置いた決断だと思います。

また、当時は私の障害が軽かったことも理由のひとつ。
とはいえ、やはり100%健常者と同じようにはできません。

私の記憶の中でも学校生活は、先生や友達の支えがあってこそ、でした。

障害者とわかった上でのスタート

私は3歳から、幼稚園に通い始めます。
ごく普通の幼稚園で、何も特別なことはありません。

ただ折に触れて、先生方に気に掛けてもらっていたな、という記憶だけ。

幼稚園の年長さん(最終年)になると、教室が2階にありました。
階段は、園児に合わせて、1つの段差が少し低いモノであったはず。

しかし私は全身の筋肉が弱いため、階段をスタスタ上がることは、出来ません。
手すりを使いながら、他の子よりもゆっくり時間をかけて。

そんな私の側にはいつでも友達が、一緒に付き添ってくれていました。
「1人では寂しいだろうから」という優しさが嬉しかったのを覚えています。

こんな感じで幼稚園では、周りの優しさあっての生活でした。

ただ小学校に上がると、優しさだけでは解決できない問題も。
この時、物理的な課題もあるのだ、周りに対処を求めなくてはいけないのだ、と実感しました。

例えば通学路には、電車の線路をくぐるための「地下道」があり、ここに階段があるものの、手すりが無い。
さらに小学校の階段にも、手すりは無い。

そこで私が通うために、地下道や小学校の階段に手すりが設置されました。
この手すりのおかげで、「地元の学校に通う」と「友達と一緒に登下校をする」ができるように。

さらに、トイレ問題。
通っていた小学校は古かったこともあり、和式トイレのみ。

私は生まれてから1度も、“かがむ”ことが、できません。
当時は足の関節等が曲がるものの、筋肉が支えきれず体勢を取ることができず・・・。

そのため和式トイレに被せるだけで洋式トイレに変わる、ポータブル洋式トイレを1つ、設置してもらいました。
ちなみにこのトイレは、学年が上がる度に使う場所が変わるので、1年に1回はお引越し(笑)。

こんな設備面以上に大切なのが、周りとの関係の仕方ですよね。
小学生の当時は走ること、段差をスムーズに上がること、重いモノを持つこと等が出来ませんでした。

そして一番の危険が、転倒のリスク。
全身の筋肉が弱いと、人との小さな接触でも転ぶことがあります。

簡単に言うと、おっとと、とよろめいて終わり、ではない。
転んでも、かすり傷や打ち身程度なら、何の問題もありません。

他の人なら出来るはずの、転んだ際に手をつく、が難しいのが筋肉の病気の厄介なところです。
そのためスグに骨折や、頭の強打に繋がりがち。

さらに他の友達まで、巻き込んでケガをさせる可能性もあります。
そのことを「知っておこうね」と、小学校では定期的に私の障害のことが周知されていました。

例えば、新入生が入ってきたとき。
これは先生が軽く説明することも、自分で説明をすることもありました。

これこそ、両親が狙った効果かなと思います。
自分で話す経験、話し方、話すポイントなど、考えながら説明をする。

小学生の時点で見知らぬ大勢の人に自分の障害のことを話すなんて、実地型の心理訓練だったな、と。
小学校までは、「設備面」と「人付き合いの仕方」を学びましたが、年齢を重ねると、障害は更に思考にまで影響します。

周りからの見え方を意識した中学・高校

小学校も家の近所だったし、中学校もそのまま地元の学校へ行く。
勝手に、何も変わらないと思っていました。

しかし現実には、障害者というだけで目線も基準も変わるのか、と。


「特別支援学級がありますので、そちらのクラスで良いでしょうか?」


中学校の入学前に、先生方と母親、私を含めて面談をしたいと呼ばれて言われた言葉です。
私にとっては、言葉を失うほどの衝撃でした。

たまたま住んでいた地域の中学校には、特別支援学級が1クラスだけありました。
その学級に入りたいわけではなく、あくまで学区内の公立の中学校だから選んだのに。

障害が、最初から基準を変えるのか、と。
ただ私の母の答えは、きっぱりと明確でした。

「いいえ。この子は身体に障害はありますが、知能面で支援は必要ありません。体育は難しいですし、他にも手助けは必要ですが、それ以上のことは要りません。」

中学時代も友達の力を借りること、自分なりの工夫があったことは事実です。
ただあくまで、“少し手助けが必要な生徒の1人”でいられたのは、母のおかげです。

そんな想いとは裏腹に、甘くない現実もありました。
中学では、将来の道を考える時期です。

特に高校の進路となれば、未来への道を見据えての選択。
どんな勉強をしたいのか、将来は何になりたいのか。

誰しもが真剣に考え、高校やその先の道を選びますよね。
ただ私には何もわからなかった、が正直なところです。

どうしても、こんな考えが付きまとったから。

「障害のある私が仕事って、選択肢はあるの?」

今でこそ、いくらでも働く道はある、と知っています。
ただ当時は、障害者が働く道は公務員か、大企業の事務員くらいしか浮かばなかったのです。

また学校の先生に相談しても、答えは同じで新しい選択肢を見出せず。
そんな考えで選んだ道は、何とも消極的な理由。

「障害者でも働けそうな事務員で、経理ならドコの会社でもあるはず」

そんな理由で、商業高校を選びました。
たまたま校舎が新しくなり、エレベーターが設置された等のバリアフリー事情も要因です。

この高校選びで、私の未来は障害をベースに考えなくてはならないのだ、と実感しました。
そして今思えば、障害にとらわれていたのは、自分自身では?とも。

どんな選択にも付きまとうもの

障害は、言葉にしたら、たった2文字の短いもの。
ただその言葉以上に、生活や思考に結びつくものでもあります。

私のように生まれつきの障害者であれば、それこそスリコミになりがち。
今思えば、自分で障害を理由に視野を狭くしていたな、と考えています。

ただこの障害者に対する、思い込みって当事者だけでもないのでは?

次回は障害者への目線について、私の実体験を基にお話しますね。

1990年生まれ。障害者ファイナンシャルプランナー(FP)。生まれつき”筋ジスの仲間”と言われつつも、正式な「ベスレムミオパチー」の診断は大人になってから。高卒・障害者雇用で大手鉄道会社の事務で10年以上勤務したが、病気の悪化により退職。そこで改めて、お金の大切さに気付く。現在は、障害者だからあるお金の悩みと寄り添いたく、障害者FPとして活動中。

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