魚の心臓といわれる「単心室症」と一緒に生きてきた
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2022.3.30
私はこれまで、「先天性心疾患」という病気と共に生きてきて、これからもずっとこの病気と生きていく。
「先天性心疾患」という病名を耳にすると、「心臓に病気があるんだな」と想像はできるが、その症状は十人十色だ。
だから、今回は自己紹介も兼ね、私の場合の「先天性心疾患」を知ってもらいたい。
執筆:古川 諭香 Yuka Furukawa
病名がたくさんつけられた体で32年間生きてきた
私の体には、様々な病名がついている。まず、「単心室症」。100人に1人の割合で発症するといわれている、この病気は正常な血液循環とならないため、ひとつの心室に負担がかかってしまうもの。魚の心臓と同じだと言われている。
そして、私は右心房と左心房の間に壁が存在しない「単心房症」であり、生まれつき脾臓がない「無脾症候群」でもある。脾臓はなくてもいいと言われることもある臓器だが、実際にない私は免疫力が高齢者や赤ちゃん並みに弱いので、脾臓は大切だ。
他にも、「肺動脈閉鎖」など、心臓から起因した病気が私の体にはたくさんある。だから、「どんな症状なの?」と聞かれても一言で説明ができないし、病名をすべて詳しく説明すればするほど相手との壁ができてしまうのが嫌で、いつも「生まれつき、心臓が悪くて」という説明している。
できるかぎり、「障害者」としてではなく、「私」として、自分を相手に知ってほしい。そういう気持ちが、常にあるからだ。
これまでに、経験してきた手術は3回。最初、生後数ヶ月で、肺血流が少ない場合に行われる「BTシャント術」を受け、その後、上半身から戻ってくる血液と肺動脈をつなげる「グレン手術」をしてもらった。
手術をしても酸素飽和度は、70代後半。スーパーの中を歩くだけで息が切れ、階段は辛すぎて登れなかった。
けれど、私のような単心室症の子にとって根治手術だと言われている「フォンタン手術」が私の生活を変えてくれた。小学4年生の時に受けたこの手術のおかげで、健常者と変わらない日常生活が送れるようになったのだ。
息が切れずにショッピングモールを歩ける嬉しさ、「紫色だね」と言われていた唇が憧れていた赤色になった喜び、チアノーゼのせいで赤紫色だった爪が、綺麗なピンク色になったことへの驚き…。
フォンタン手術は病気を完治させる手術ではないから、今も私は「先天性心疾患者」のままだけれど、術後は「自分を生きてる」と思えるようになった。
「障害者らしい」より「私らしい」人生を送りたい
けれど、手術をして健常者と大差ない日常を送れるようになったからこそ感じた、苦しみや社会からの偏見は多かった。
そうやって、何らかの壁にぶつかるたび、「健常者と障害者の狭間で生きている」と感じ、生き方に悩んだ。だから、自分と似たような境遇を経てきた人の体験談が知りたいと思い、書籍やネットを漁った。
けれど、そもそも自分と似た症状の人が少なく、フォンタン手術に至れる人も限られており、術後の経過も様々であるため、似た境遇の人生に触れることができず、苦しかった。
年を重ねていく分、モヤモヤは増えていく。就職はどうする?結婚は、できるか?どうやって周りにカミングアウトしてるのか?日常生活の中では、どんなことに気を付けてるのだろう…。素朴だけど自分にとっては大切なクエスチョンに応えてくれる誰かがほしかった。
そんな人と私は出会うことができなかったからこそ、今、こうして筆を執っている。あの頃、欲しかった「誰か」に、私がなりたいと思って。
先天性疾患を抱えながらも、大人になれることはとても喜ばしいことだ。しかし、成長する段階で、大人の先天性心疾患者は子どもの頃とは違った悩みを抱え、生き方に戸惑うこともある。だから、「私のこれまで」が当事者や、その親御さんの心を少しでも照らす材料になったら嬉しい。
そして、先天性疾患者は心臓に穴が空いていたり、私のように脾臓にまで症状が現れていたりと、症状の個人差が大きく、術後の経過によってもできることが違う。生き方が十人十色であるからこそ、病名でひとくくりにされず、それぞれの症状が理解され、受け止められやすい社会になったら喜ばしいと思うのだ。
障害者らしくではなく、できるときにできることをしながら自分らしく生きて、生きて、生き抜いて、最期に「悪くなかったじゃん」って思って散るのが私の夢だ。病院で仲良くなった子と話すと、大人になった先天性心疾患者は私と同じく、長く生きることを諦め、どこかで死を覚悟しながら生きているように感じられることも多かった。
だからこそ、私のこれまでが誰かにとって「こんな生き方もあるんだ」という発見になり、その人が、自分らしい人生を思いっきり楽しめるようになったら嬉しい。