「自分らしく」生きられないわたしたちが、幸せをつかむということ。
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2022.4.20
「やりたい」と言っても「やりたくない」と言っても、それを抑圧され、意志に従った行動を許されない、ということが教育の場でも職場でも当たり前のように起こりますが、その抑圧は無視できないほど多くのことを奪っているかもしれません。
執筆:いりえ(北橋 玲実)
わたしたちの社会は、「抑圧」に満ちています。
学校に行けば授業中に人と話すことは禁じられ、やりたくないニガテな教科も一定の点数を取らねばなりません。
社会人になり、社会的な責任と自由を持つはずにもかかわらず、ほとんどの人は組織の慣習やルール、あるいは暗黙知によって必要以上に縛られています。
部署の先輩から否応なく業務を引き継ぎ、ニガテな業務ほど何時間も作業とやり直しを食らうでしょう。その扱いに反感をもち、上司の命令に意見しようものなら目をつけられて冷や飯を食うことさえあります。
「みんな違って、みんないい」という言葉とは裏腹に、現実世界では適性の有無にかかわらず、組織の中ではどのような人にも横並びの業務が与えられる現場は今の時代においても根強く残っています。
そういった学校、会社などの組織での日常の中においては、自分の感情や欲求、あるいは意見を口にするような「自分らしさ」を発揮する場面は皆無です。
健常者はもちろん、発達障害者は特に得手不得手や興味関心の差が激しいですが、社会においては「みんなと同じ」であることがとにかく求められます。結果として、得意分野ややりたいことを抑圧された記憶がある方は多いかと思います。
個性ある私たちが、「みんなと同じ」を求められて欠点修正に時間と労力を割き、「自分らしさ」を発揮できない強い抑圧を受けてしまうと、モチベーションが下がること以上に、その人が本来発揮できる能力(組織においては生産性)の成長が阻害されることも見逃してはなりません。
欠点修正を行うよりも優点伸長(得意分野を伸ばすこと)の方が本人にとっても周囲の人間や組織にとっても有利な点が多いはずです。
それでもこの社会が執拗なまでに欠点修正にこだわる原因についてはいろいろな説を唱えられますが、いずれにしてもこのような抑圧が、組織や人を歪ませているのではないでしょうか。
以前、パワハラ防止法(労働施策総合推進法の改正)が施行されました。当時の私の企業も、人事が主導となって社内に啓蒙活動を行っていたことは記憶に新しいですが、その活動むなしく、当時所属していた部署でパワハラが発生。まさに施行直後のことでした。
確かにパワハラやセクハラで苦しむ人はいるでしょう。
現場でそれを阻止すべく企業で取り組みが行われることが望まれる状況もあるかもしれませんが、「そもそもなぜパワハラが起こっているのか」ということを法案策定の上でどれだけの人が考慮したのでしょうか。
先ほど述べたような教育やしつけから始まる願望や感情の抑圧は、大人として成熟するうえで必要とされる自己肯定感や他人への信頼の醸成の機会を奪います。
そのような背景で心のよりどころを持たず、かつ抑圧を当然と思う人が、抑圧のストレスをパワハラなどによって他人に転嫁することも十分あり得る話なのです。
もちろんそれがパワハラである必要はありません。そこに加害者を責める余地は生まれます。
しかし、抑圧そのものが社会に当たり前のように受け入れられ、抑圧を受けた人が当たり前のように他人を抑圧するという連鎖が社会のいたるところでほころびを生んでいるように思えてなりません。
わたしはパワハラそのものを推奨する意図はありません。
ただ、現場で起こっている「パワハラ」「セクハラ」などと呼ばれる行為を現場で止めようとすることは、抑圧の末に爆発しそうになっている感情をさらに抑圧し、その圧力を高めていることのように思えてなりません。
わたしがこの場でお伝えしたいことは、これまで抑圧を受けてきたからといって、これからも自分の欲求や可能性を抑圧する必要はないということです。
さらに言えば、他人を抑圧する必要もまた存在しないのです。
人は感情的な生き物であり、頭で「抑圧する必要はない」と分かっていたとしても腹落ちするには時間がかかるかもしれません。
許されないほどの抑圧を受けた人もいるでしょう。ですが、その抑圧を他人に擦り付け、あるいは自己を抑圧し続けた先に待つものは更なる苦しみや不幸かもしれないのです。
人は、本来もっと可能性にあふれ、自由な生き物のはずなのです。
たとえ環境がどうあって、他人に何を言われたとしても、私たち自身の感情や行動は最終的にはわたしたち自身が決めています。
その「責任」を受け止めることが、結果として抑圧から解放されて「自分らしく」人生を謳歌することにつながるのではないか、そう思うのです。