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障害者が障害者を配慮することについて

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2022.6.7

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。障害者は基本的に社会に対して配慮される側にあるが、障害者の隣に障害者がいれば、配慮する側になる。そのことについてどう思うか、と聞かれ、返答に困った。障害者が障害者を配慮することについて、まとめてみた。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

障害者は基本的に社会に対して配慮される側にあるが、障害者の隣に障害者がいれば、配慮する側になる。そのことについてどう思うか、と聞かれ、返答に困った。

確かに、普段の生活において、身の回りには圧倒的に健常者が多いので、大抵こちらが配慮される側になる。友人と食事に行くときは車いすを押してもらったり、一階の段差がないお店を選んでもらったり。指先に力が入りにくいので、おしぼりの袋を開けてもらうとか、割り箸を割ってもらうなど、時間をかけて頑張れば出来なくはないが、代わりにしてもらうほうが早くて楽なことはお願いする。

どうしても「してあげる」ことよりも「してもらう」ことのほうが多くなってしまう。

では、障害者同士のときはどうか。

私は頸髄損傷という障害の人達が集まって訓練する施設に2年ほどいたが、そこでは私の障害はむしろ軽い方で、より重い人の床に落ちたものを拾ってあげたり、タバコに火をつけてあげたり、焼肉をトングで焼いてあげたりと、してあげるほうが圧倒的に多かった。

それらは、私にとっても出来なくはないが、時間や労力のかかることだ。とはいえ、誰かがやってあげないといつまでたっても出来ないのだから、やるしかない。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


健常者の頃は、頼られると断れず、逆に人を頼るのがひどく苦手だった。

「配慮される側」よりも「配慮する側」のほうがしっくりくる。だから、障害者になりたての頃は申し訳無さを強く感じた。それは卑屈なほどだったように思う。

見た目は健常者から車いすになったかもしれないが、自分にとって自分は何ら変わらない。今まで当たり前に自分でしていたことが出来ず、人に頼らざるを得ない。それは言ってしまえば屈辱的でもあった。

自尊心が低かったのかもしれない。ありのままの自分が受け入れられず、何かの役に立つ自分でいることでなんとか存在していられたから、役に立たない自分の存在をなかなか許すことが出来なかった。

在宅勤務を選択したのも、そこが大きいのではないかと思う。パソコン一台で完結できる仕事なら、健常者と変わらず働ける。合理的配慮を求める煩わしさがない。

配慮を求めるとき、どうしても「申し訳ない」気持ちが拭いきれない。それどころか、「健常者には負けたくない」とさえ思っている。

今ではさらりと「ありがとう」を言えるようになったが、何かをしてもらったとき、厚意を素直に受け取るということは、実は難しい。

逆説的だが、厚意は自尊心がなければ受け取れない。自分を取るに足りない人間だと思っていれば、取るに足りない自分は厚意に値しないと自分自身で決めつけてしまって、相手の気持ちを受け入れることが出来ないからだ。だからやたらと卑屈になってしまったり、あるいは、傲慢になってしまったりする。

自身に対する劣等感と他者に対する敵意。それは拭い難い。けれども、前回の記事に書いたように、他者を味方だと思えない限り、居場所は生まれない。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


障害者・健常者関係なく、誰もがひとりでは満たせない部分を持っている。それを認めることが出来たら、与え合い、受け取り合う関係を築くことが出来るのではないか。

障害者は物理的に、してあげられること・してもらうことが偏った関係になりがちなところは大変な場合もあるが、それでもきちんと「受け取る」ことが出来れば、与えてくれる相手の苦痛にはならないはずだ。

先日、ドキュメンタリー映画『イーちゃんの白い杖』を視聴した。全盲の姉と重度障害を抱えた弟とその家族を20年にわたって取材したものだ。

弟は歩くことも食べることもトイレに行くことも出来ない。入退院を繰り返し、両親と祖父母と姉が自宅で介助する。暮らしは大変そうであるが、家族の中心にはいつも弟の存在がある。

不思議なのだが、すべての生活を家族に支えられて生きている弟が、家族を支えているように見える。弟が介助されることは家族にとって当たり前のことであり、けれども、有り難いことでもある。彼らにとって弟がいることは当たり前のことだが、彼らがいなければ弟は生きていけない。

目が見えない姉は、ほとんど寝たきりの弟の車いすを、見えないながら押してやる。もちろん、配慮が必要な側にいる姉にとって、自身が配慮しなければならない側にもいるということは、辛い瞬間もあるかもしれないが、受け取る弟の存在があってこそ、与える側の存在感も際立ってくる。

また、弟は姉が全盲であることを思ってか、姉の声掛けに対してしっかりと声で応える。そして、見えない者同士で探りあって手を取り合う。

その姿を見ていると、相手から受け取れていれば、何も出来ないとしても相手を思いやり、配慮することは可能なのではないかと思わせてくれる。

ありのままの自分がただそこにいるのを認めることを、私自身できているかと言えば怪しい。私は人の役に立ちたいし、多分他者にもそれを求めている。

役に立ちたい気持ちが悪いものではないとは思うが、まず、ただ存在するだけでも与え受け取れる人であれたら、心豊かになれるかもしれない。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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