介助者とコミュニケーションをとることがお互いのストレスを減らすコツ
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2022.7.9
左半身麻痺の身体障害者になってから、できなくなったことがたくさんあります。今回は、人の手を借りることによって感じたストレスと、介助者との考えのちがいなどについて書いていきたいと思います。
執筆:市川 潤一
私は自分の健康を顧みない仕事の仕方や不摂生から急性心筋梗塞を発症し、その手術の合併症から脳梗塞になって、左半身麻痺の身体障害者になってしまい、障害者になってから気づいたことなどをこのパラちゃんねるカフェで最初からずっと書いてきました。
前回は、障害を負ってからできなくなったことに対し、人の手を借りることによって感じたストレスや障害を負ったことによってイメージや考えが変化したことなどを書きました。
今回は障害を負った者が、人の手を借りること、そのことによって生じる、本人や介助者の考えの違い、ストレスなどについて書いていきたいと思います。
脳が損傷し、半身麻痺の症状が出ると、本人はできると思っていても実際にはうまくできないことがたくさん出てきます。
この「本人はできると思っている」というのが非常に厄介な部分です。障害を負った本人も周囲にはなるべく迷惑をかけたくないし、自立のために、周りが手伝ってくれそうでも、「できます」とつい言ってしまうことも多分にあります。
本人は、人の手を借りずともできるようになることにしか目が向いていませんから、ついそういう行動や言動をとりがちです。
たしかに、本人にとっては自分でやってみることはリハビリになるし、良いという側面もあります。一方で、病院職員や、介護職員にとっては、本人が頑張って挑戦した結果、怪我や事故につながる危険性を無視できないのでしょう。
内心、できればあまり一人でやろうとしないでほしい、手伝わせてくれと思っている部分もあるのかもしれません。しかし、人の手を借りてばかりではいつまでも自立はできません。
一人で自分のことをやりたい障害当事者と、なるべく手伝いたい介助者。そこに溝が生まれてしまうのではないかとも思います。
前回も書きましたが、「自分一人でできるんじゃないですか?」と言われたからやったのに、実際にやると注意されたり叱責されたりする事情はそういう部分にあるのだと感じています。
そして、それは病院や介護関係者だけでなく、家族や周囲の人も同様です。
例えば、私は階段を降りるときなどは手すりさえ有れば、問題なく降りることができます。よく介助経験のある人が、良かれと思って階段を降りるときに麻痺側を支えようとしてくれますが、それは私にとっては非常に動きにくくなり、かえって危険なので、断ることも多いのです。
ただ、正直に伝えると「せっかく手伝ってあげようとしたのに無下にされた。」というような態度をとる人も実際います。
こういう部分は、身体障害者と健常者は理解し合えない部分なのかもしれないと、片麻痺歴も長くなってから改めて気づいた部分でもあります。
そうなりそうな空気を感じたら、私は階段に近づく際に、その人に先に「手すりがあれば安全に上り下りできますので介助は不要です」と言うようにしています。
これは、別に遠慮しているのではなく、一人で動いた方が動きやすいからということは知って欲しい部分でもあります。
わかり合えないからこそ、障害者と健常者関係なく、お互いにどうして欲しいのか、何をすればいいのか聞くという、人としてのコミュニケーションの基本的な部分を大事にしなければいけないのではないかと思います。
よく、私が障害を負ってから「どう接して良いのかわからなくなった」といって離れていった人たちがいましたが、基本的に何も特別なことはなく、人とのコミュニケーションをとるときとなんら変わりないと私は思っているのです。
「どう接して良いかわからない」と言われると、「障害者だから人として見られていないのか」と、寂しく、悲しい気持ちになるときもあります。
そして、気遣いや手を貸してくれること自体はありがたいし、助かっている一方で、障害者だから、「手伝ってあげる」や「してあげる」といった言い方は、優位性や親切の押し売りのように感じてしまいます。
前回も書きましたが、私が住んでいる土地が、海外の方が多いということもあるのでしょうが、海外の方は幼い頃からの多様性教育の影響なのか、そういう手伝いや手出しがスマートにできるなあという印象を受けます。
日本人は多くを語らないのが美徳と感じている部分もあるかもしれませんが、しっかりとコミュニケーションをとることがお互いのストレスを減らすコツだと思います。