子供の発達障害に気づいた頃のお話
1 1
2022.10.28
第一子を出産した頃は、発達障害という言葉はあまり耳にしないような時代。
孤立した子育ての中で、第一子の発達障害に気づいた頃のお話をしたいと思います。
執筆:愛
第一子はとにかく夜泣きが酷くて、30分や15分置きという日も多く、少し寝るようになっても、周りや下の子たちと比べると、圧倒的に寝ない子でした。
幼児期は、ご飯もよく食べ、よく遊び、とても活発に元気に育ちました。
ただ気になることとして、3歳ごろになるとなんとなく感じた、
『言うことを聞かない感』
『集中の仕方』
『言葉が少ない感』
『言葉が伝わっていない感』
『他者との関わり方』
本当になんとなくのぼんやりとした、微妙な違和感…。
当時は、今ほど情報も無く、発達障害という言葉を聞いたことすらない環境だったので、子供ってそんなものなのかも…という思いもありながら、頼れる人のいない“孤育て”に、情報を共有する人もいませんでした。
ですが、ちょうど3歳児検診があったので、念のため気になっていることを保健師さんに相談してみたところ…
『男の子だし』
『成長かもしれないね』
『様子を見ましょう』
ということで、結局、当時の私は、モヤモヤを抱えたまま、様子見の数年を過ごすことになりました。
子育て支援センターや保育園に通うようになっても、『他の子と違う』という感覚は拭いきれませんでした。
小学校に上がると、問題が頻繁に起こったり、数人対1でいじめや暴力などを受けたり、逆にこちら側が手を出してしまったりと、呼び出しや連絡、謝罪が絶えない毎日で、子供同士、親御さんとのギクシャクも増えていき、親子で孤立が進んでいきました。
参観日に子供の様子を見ていても、1人だけ理解していない様子や、教科書を出したりすることですら、周りに追いついておらず、私の中での違和感は引っかかりとしてずっと消えずに残っていました。
保育園と学校の先生からは、特に発達についてのお話は無かったですし、周りにはしつけのせいだと言われることもあり、問題が起こるたびに自分を責める気持ちがどんどん膨らんでいきました。
担任の先生との教育相談も毎月通っていましたが、解決策は見つからず…。
ずっと違和感を感じたまま、夏休みの宿題を見ていた時、やっと、動き出します。
何度も何度も説明をして、そして答え自体を教えても、最後まで分からないという我が子…
それまでも、宿題や、テストで理解していない様子は見られていましたが、
今、目の前のこの答えが分からないというのは、
やっぱり何かが違う…
これを理解できないってことは…
『やっぱりなにかあるのでは…?』
と、すぐに発達障害についての情報を調べ始めました。
”発達障害“という言葉も知らなかったので、なんとなく、
『発達 障害』
と調べてみると、出てきた内容がこれまでの子育ての中に当てはまりすぎるのを目にして、確信じみたものさえ生まれていきました。
急いで相談機関を調べ、予約をし、面談を開始。
相談機関と病院で検査、診察をして、診断がついたのは動き出した夏休みから半年後。
その時既に、適応障害も併発していました。
相談をしている間、チック症や不定愁訴も生じており、神経科でモニターをつけてもらい心臓の検査をしたり、服薬も開始しました。
そして、プラスして別の発達障害の診断がついたのは、更にそこから半年後でした。
その時既に2年生になっていました。
予約や診察、検査までにも時間がかかるため、それだけの時間を要しました。
出来ないことも多いけれど、出来ることも多かったのと、当時、私の中で障害というものが、活発な子とイコールになりにくく、動きだすまでにかなりの時間を要してしまいました。
子供は、長い間誰からも理解されない中での生活だったので、とてもとても負担が大きく、過酷な環境だったのだと思います。
今ほど学校も整備されておらず、通っていた学校には支援学級が無かったので、通常学級で過ごすしかありませんでした。
当時の担任の先生も、発達障害の知識は無く、診断名を伝えても知らないとの返答がありました。
1年生から不登校気味になり、段々と付き添い登校や不登校に。
通っている学校との連携も難しい状況で、3年生からは、車で通う距離の地区の支援学級に転校しました。
転校を決めるまでも、色々な想いやたくさんの葛藤がありました。
症状などについては、ほとんどネットで調べるような状況だったので、私自身の理解も中々進みませんでしたし、何より目の前のことで精一杯だったことが、理解が進まない1番の大きな理由だったと思います。
小学校1年生で判明した第一子は、年齢的に療育が受けられませんでした。
本当は3歳で異変を感じていたのに…
子供にしてあげられることが少なくなってしまったと感じて凄く悔しかったです。
ちなみに、第一子の経験から、第二子は5歳で気付くことができ、療育を受けることができました。
第三子は2歳で気付き、医師からは療育は必要ないとの診断でしたが、今後を考え福祉型の児童発達支援を受けました。
※療育は成長のサポートであり、障害が治る、ということではありません。
診断がついたことでホッとした部分と、
それでもしつけのせいなのではないか、
しつけでなんとか改善するのではないか、
どこまでがしつけで、
どこまでが障害なのか。
そもそも発達障害は私のせいなのではないか…
(妊娠中の働き過ぎが悪かったのではないかと言われたり、母親の責任論に触れてしまったことが大きかったです)
大きな葛藤と苦悩を1人で抱えなくてはいけないことに悩みは絶えず…
常に、
『自分を責めながら、子供を育てる』
そんな悪循環が、そこから長く親子間にも影響してしまうことになりました。
長いこと道が見えない中で、あの頃の私は今ほど元気でも強くも知識も経験もなく、子供を理解してあげることも、守ってあげることもできませんでした。
不甲斐ない私の代わりに、トラブルが起きた時、支援学級の別の保護者の方や支援機関の方に守って頂いたことも数多くあります。
子供の発達の中で、何が起こっているのか、
どうなっていくのか、どうしたらいいのか、
全く見えない…。
適切な支援に繋がるにも、これまで積み重なってきた傷つき体験が故に、人を信じることも、頼り方も分からない中で、どう繋がっていけば良いのか…
でも、悩んでいる間にも、日々親子間、子供自身の困難さや二次障害は大きくなっていく…
ネットの情報は合っているものから少し違うものまで沢山溢れており、また、同じ診断名でも症状は人によって様々で、
グレーゾーンも存在します。
できることとできないことがかなり大きな凸凹タイプの子もいます。
誰かの正解が自分たち親子の正解とは限りません。
兄弟でも違いました。
『保育園』や『学校』や『外での姿』
と
『家』と『私と一対一での姿』
では、子供の姿が180度違うこともあり、中々理解が難しく、先生や支援の方との距離が出来てしまうこともよくあり、その度に孤独感だけが増していくこともありました。
だからこそもっと早く、専門家や支援の方と繋がっていたら、子供の成長を今よりサポートできただろうし、何より親側の私が子供に対して適切な関わり方を学べたかもしれない。
その後の預け先や学校生活などで共有できる情報がもっと増えたのかもしれない。
早く子供の困難さを知ることで、対策や対応もできた分、二次障害やトラブルを少しでも防ぐことができたのかもしれません…。
もしも…
もしも…
そんな想いは消えませんでした。
でも、私自身の問題や障害、後遺症を抱えている中、治療と並行しての子育てで、その時の私は既に、『ぐちゃぐちゃ』でした。
私自身が私自身の状況を理解できていませんでしたし、あの時は全てが精一杯で、その後の私の治療、回復無しでは、今の子供たちの笑顔は存在していません。
…本当に苦しく、
どうにもならない気持ちとか、社会からも存在が認められていないように感じて、目の前をもう抱えられなくて、
この子と一緒に…なんて頭をよぎることも何度もあって…
私のせいなのか。
発達障害は生きてちゃダメなのか。
生んだ私の責任なのか。
命とはなんなのか。
愛しているのに。
何でこんなに泣いているのだろう。
ただ笑い合いたいのに。
寝顔を見るたび泣いて。
謝って。
一日中泣いて。
流れてくるニュースは他人事じゃない。
次はうちかも…
そんな時も数えきれないほどありました。
でも、それでも、
ボロボロの中でも、
心には、ちゃんと残っていました。
支援学級に転校後、私も子供も病状などが悪化する一方で、過酷な日々は更に酷くなり、子供たちと私の命を守るためにある決断をしました。
最後の頼みの綱。
それはいつか…
お話できたら良いなと思います。
特性を持つ子供たちと自分自身の理解は今もこれからも学びは続きます。
少しでも子供が生きやすい環境をつくったり、生きる力をつけさせたり、元々の優しい心を壊さないために、今も支援の方々に支えて頂きながら、一緒に子育てをしていただいています。
本音を言うなら…私が1番最後まで長生きしたい。
残していく不安の大きさは、計り知れません。
これからも、日々ひとつひとつに向き合っていく。
今できることをひとつひとつしていく。
そんな歩みが続いていきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。