結婚時に経験した障害者差別
「あの子でも結婚できるんだね」の言葉に傷つけられた
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2022.12.12
こんな場でも障害があることを理由に、特別視されるのか。
そう感じたことが、人生の中で何度もある。
そのひとつが、結婚。
本来ならば笑顔溢れるイベントの中で、涙が滲んだ。
執筆:古川 諭香 Yuka Furukawa
「あの子でも結婚できるんだね」と親戚に言われて
私は数年前に離婚し、バツイチとなった。
元夫と結婚したのは、23歳の頃。当時の私は結婚が決まり、大好きな人と一緒に暮らせるという幸福感でいっぱいだった。だが、その裏で両親は心ない発言に苦しんでいた。
のちに両親から聞いて知ったのだが、私の結婚が決まり、父親の妹宅へ挨拶に行った際、両親は妹さんの旦那Bさんから、「あの子でも結婚できるんだね」という差別的な発言を受けたという。
その後、旦那さんは「障害者なのに」と付け足したため、私の父親は怒ろうとしたが、母が制止し、大事にはならなかった。
こうした話を聞いた時、胸に広がったのは悲しみだった。Bさんには精神疾患を抱える娘さんがいる。だから、障害を身近に感じたり、周囲の心ない言葉に苦しんだりしたことも、きっとあったはずだ。
それなのに、病気は違えど、同じ「障害者」という立場である私に差別的な言葉が向いたことが悲しかった。
もし、同じ言葉を娘さんに向けられたとしたら、きっとBさんもいい気持ちにはならないだろうに、そうした事態を想像した上で、口から出した言葉であったのならば、より悲しいと思った。
そして、何より、本来ならば「おめでとう」の言葉や笑顔がたくさん向けられるであろうめでたい場で、障害を強く意識する言葉を向けられたという事実が辛かった。
私は決して、聖人君子ではない。けれど、それほど話したこともなく、私という人間をあまり知らないBさんに、障害という部分だけで、自分の価値を値踏みされたような気がして嫌な気持ちになった。
「私は障害者」だと痛感した結婚式での過剰な気遣い
逆に、祝いの場で過剰に気を使われ、特別扱いされるのも居心地が悪い。元旦那と結婚式を挙げた時、たいして親しくない親戚から基準額よりもはるかに多いご祝儀を貰い、そう思った。
その親戚は、「病気があっても頑張って、結婚できたから」という同情的な理由で多額のご祝儀を渡してきた。けれど、その重い祝儀袋を持った時、「こんなに重いものをあなたは背負っている」と言われているような気がして、苦しくなった。
当時の私は健常者とほぼ変わらない日常生活を送れていたため、自分を障害者という視点で見ないことも増えていた。
だから、過剰なご祝儀という優しい差別がより心に刺さった。私は同情されるほど重い病気を持っている障害者なんだと、自分自身で認識せざるを得なくなったから。
自分では普通に暮らし、普通の幸せを掴んだと思っていても、誰かの目には「普通ではないあの子が、やっと人並みの幸せを掴めた」と映っており、悲劇のヒロインとして扱われているように感じた。
もし、多額のご祝儀をくれたのが両親や姉であれば、私はまだ納得ができただろう。なぜなら、一緒に暮らす家族は一番近くで私の闘病を見てきた人たちだから。
けれど、そうした身近な人に限って、ごく普通に「おめでとう」とだけ祝ってくれ、闘病の様子など全く知らない人のほうが過剰な気遣いをする光景に違和感を覚えた。
まるで、私の人生を勝手に美談にし、「かわいそうだったけれど幸せになれた子」というレッテルを押しつけているように感じて。
健常者ならば「おめでとう。幸せに」という言葉で終わることが多い結婚という場面でも、障害者は周囲からの反応によって苦しむことがある。理想の祝われ方は人それぞれ違うと思うが、少なくとも私は、そんな特別な日くらいは障害があることを忘れたいし、差別的な発言を聞いたり、過剰な気遣いに困惑したりしたくない。
当事者が頑張ってきた過程を知っているからこそ、ごく普通に祝福する――。そんな風潮が広まれば、普通の幸せを自分の身に余るものだと捉えてしまう障害者は減るのではないだろうか。