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きこえる人のようにしゃべること~その3

なんかおかしいぞ。「障害受容」という言葉

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2022.12.2

「きこえる人のようにしゃべること」連載コラムの第3回目です。

前回のコラムでは、聴覚障害者の私が「どうやって声でしゃべるのをやめていったか」を話しました。

今回は、間奏的に「私が世の中に対して思うこと」について話します。

きこえる人のようにしゃべること~その1~音声を出すのをやめたら生きやすくなった
きこえる人のようにしゃべること~その2~頭がいい人でも聴覚障害のことは理解しにくい

執筆:中川 夜 Yoru Nakagawa

本音としては「音声を出してしゃべっていられるならそうしていたかったなぁ」。

こう思ってしまうのも、「きこえる人のように生きるのがよい」という考えをもとに「きこえないのにきこえるように努力してきた弊害」ですね。

きこえないから、どんな声を出しているのかわからない。「それなのに、音声を出すのは却って不自然だな」と今は思っています。

しかし、世の中の大多数は「たとえきこえなかろうが、きこえる人のように振る舞う」という固定観念がまかり通っているように思います。

思います、というより、そうだとしか思えない出来事がありまくりすぎるのですが。

「それはどういうことだ?」と思われるかもしれませんが、「社会というものはそういうものらしい」と思うしかないといいますか。

例えば、知り合った人たちに対して、話の流れで生きにくさの不平不満をポロっと漏らし、そのまま愚痴を垂れ流したこともありましたが、あんまり意味はなかったなぁと思っています。

しかも、不幸自慢だと思われたり、「辛いのはあなただけじゃない、私も俺もこんなことある」という不幸自慢を返されたり。

「みんな辛いんだよ」と言われると、却って申し訳なくなりました。

辛すぎるあまり、単純明快に「自分の存在がなくなってしまえばいいのかな…」と思ってしまいました。

不幸自慢にはなっていたかもしれないけど。

私が言いたかったのは、
「どうしてか、社会に関わろうとするとこんなにも辛い。なぜなのか、わからない」
でした。

相談される方も困ってしまう内容だよなあと今なら思えるのですが。

自分の言う「辛い」と相手の言う「辛い」というものは、根本的になんか違うような…。それをうまく言語化できない時は相当、心が参りました。

苦しい原因の答えがほしくて、いろんな本を洗いざらい読みました。

が、解答がどこにもない。

ほとんどが聴者が書いたものだから「やっぱ何か違うな」と思っていました。

とりあえず、「きこえていない自分が悪い」と思うようにしましたが、そう考えすぎて、さらに辛くなりました。

どういうことだ、というより、もうどないせよと。

「障害者に生まれたことが運の尽き」と、心の奥底からささやいてくる

「障害者、とくに聴覚障害者に生まれたことが運の尽き」ということではあったのだと思います。

相談した相手が基本的に聴者だったから、「辛い」が日常に及ぶことが、想像しにくかったんだろうなあと思います。

ちなみに聴覚障害者に吐露すると、堂々巡りの会話になります。

なかには「自分はこんな風に努力してやっている」という建設的なアドバイスをくれる人もいましたけど、相手は補聴器をつけて多少きこえている場合が多いです。

全くきこえていない人の方が稀らしい。

「あ、自分の努力が足りないのか」となります。

そう思ってやたらめったら努力したら限界を超えてしまいました。

実は自分も、悩んでいる人に対して「こうやってうまくやっている」とアドバイスをしたことがあります。今思えば、余計なお世話な上に黒歴史です。恥。

というのも、悩んでいる人に対して悩んでいる人がアドバイスしたところで、どっちもどっちで、その場しのぎの気休めにしかならないし。

本当は、ただただ、とことん相手の話をきけばよかっただけだったのに。

でも、聴覚障害に加えて、精神障害者にもなった自分は、心のキャパが小さくなり、そういったことは一切できなくなりました。

なんかおかしいぞ。「障害受容」という言葉

話は変わりますが。

聴覚障害者をはじめ、さまざまな障害者には社会の現実を受け止める必要があるらしく、例えば、「障害受容」と言われるものがあります。

ざっくり私的解釈で言えば、「自分は障害者である」ということをはっきりと認識をすること(だと思っています)。

社会とうまく関われないのは、「自分のなかにある障害のため」(これは「医学モデル」と言われる考え方ですが、今回は掘り下げません)。

そういう理屈でいくと、「自分が障害者として生まれた(なってしまった)ことがそもそもの元凶」と、自責する方向にいきます。

それでいくと私は病みました。誰のせいとは言わないけど、さすがに自分だけのせいにすると極限きっついです。

なんでもかんでも「障害のある自分」が悪いとなると…。

今だから冷静になれるのですが、そういった考えは存在否定です。

「死ね」と間接的に言われているのと同じかもしれません。

うっかりすると、そうとしか思えなかった時期もありました。思っていた時間がとても長かったんでもう勘弁してほしい。

というか、社会全般は私をはじめとする障害者にいくらなんでも負担を押し付け過ぎではないだろうかと思います。

とは言え、障害年金をもらっているし、無理に働かなくていいという大義名分みたいなものはもらっています。そして、現在はもう無理に働かずに過ごしています(というより、そうなるしかなかった)。

どこもかしこも障害者の存在を無視しているように感じます。

どこも健常者の意見などが優位です。

ひょっとすると、障害者はいない方がいいという考えへ簡単に流されてしまうかもしれないと感じる時もあります。

そうではなくて、根本的な障害となる壁をなくすために国をはじめ、社会はそろそろ障害当事者たちの声に耳を傾ける必要があるのではないかなと思います。

そして、少しずつでいいから誰かと一緒に認識した上で着実に改善していく。
今こそ、そういう時かもしれません。


現在もまだ健常者基準で社会が回っています。

しかし、健常者といわれる人たちのなかでも、ある種の生きづらさを抱える人も増えているんじゃないか、とそう感じます。

その健常者基準をそろそろ見直した方が本当の意味で社会のためにもなるんじゃないかなと僭越ながら思っています。

というか、何とかしないとまじで生きづらいし、老後も心配でしかないです。

終わりに、閑話休題です。

結果的にはきこえない上に、私は心身が不調になりがちになりました。

元気な時と元気じゃない時の落差が激しいので、定期的に勤務するというのは厳しいのです。

このコラムを書いている今、11月なのに暑くなったり寒くなったりのくり返しの気温の変化にこたえています。朝寝坊はもちろんだし、夜はなかなか寝れないです。

数年前、社会に関わっていたいために、アルバイトとして会社に勤めていた時は、ままならない心身で会社を休みがちでした。

そのため、どうあがいても努力もしましたが思うように動けず、辛かった。会社に対して申し訳ないし、うまく働けない自分を「甘え」だと思い、自分の存在を否定する方向に行きました。

どんだけ自責しているんだって話ですね。

しんどいので、フリーライターになりました。

カッコいい響きの職業名ですが(仕事のことを聞かれると、カッコいいですねと言われます)、実質的にはほぼセミリタイアじゃないかなと思います。

世知辛いですが、ようやくホッとしました(いろいろと諦めがやっとついたのもあり)。

めでたしめでたしなのかどうかは…?です。
まだまだ今後の自分の努力次第になります。

次のコラムに続きます。

1991年生まれ。生まれつき耳が聴こえないが、教師両親から「聴者」のようにと教育される。中学生から不登校に。高校で学校に通えなくなると適応障害と診断される。のち統合失調症発症。
27歳にメンターと出会い、「これまで原因は貴方にあったのではなく背景に外的要因があったから」というくり返しの会話で深い心理的安全を得る。現在、ライターとして活動。

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