適度に努力、適度に脱力。全盲の私が大切にする家族のあり方
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2023.6.1
とにかく楽をしたい。そう考えて生きてきた全盲の私に、変化が起きた。きっかけは夫と2人で暮らし始めたこと。私は新たな挑戦に踏み切ったのだ。家族として支え合うために。2人にとっての家族のあり方とはどのようなものか。綴ってみる。
執筆:山田 菜深子
とにかく楽をしたい。そう考えて生きてきた全盲の私に、変化が起きた。
きっかけは夫と2人で暮らし始めたこと。私は新たな挑戦に踏み切ったのだ。家族として支え合うために。
家族だからといって、いつでも支え合わなければと思っているわけではない。ほかにも大切にしたいことが、私たちにはある。
2人にとっての家族のあり方とはどのようなものか。綴ってみる。
役割を果たすため料理に没頭
いかに楽をするか。いかに嫌なことを避けるか。それが私にとっての生き方のテーマだった。ただただのんびりと、平和な日々を送っていたかったのだ。
ところが、そんな私に変化が起きた。夫と暮らし始めた頃のことだ。「家族として一緒に暮らすんだから、自分もちゃんと役割を果たさなきゃ」というまじめな感覚が芽生えたのである。そして挑戦し始めたのだった。
どんな挑戦を始めたのか。特に大きかったのは料理だ。初めの一歩を踏み出すのには勇気が必要だったが、全盲の知人からアドバイスをもらいながら頑張ってみた。
点字付きの電磁調理器を手に入れ、美味しいご飯を作ろうとあれこれ試した。ネットでいろいろなレシピを見て、材料を切って、炒めたり煮込んだり。私にしてはずいぶん気合が入っていたと思う。
それまでの私はといえば、母の手伝いや家庭科の授業などで料理の経験は少しあったものの、進んで台所に立とうとは考えなかった。料理なんてしなくて済むならそのほうがいいとさえ思っていたほどだ。それでも必要に迫られて始めたら案外楽しい。
夫も美味しいと褒めてくれる。すっかり気をよくして、「どうすればもっと美味しくなるかな」「次は何を作ろうかな」などと頭をひねりながら夢中で取り組んだ。
これを機に、我が家の家事の分担は決まっていった。私は料理など担当。きれい好きな夫は私の苦手な掃除など担当。「それぞれ好きなことや得意なことをやって支え合おう」ということになったのだ。
失敗しながらも挑戦できた
ただ、残念ながら私は料理に向いているタイプでは決してない。
というのも、全盲である上にかなりのおっちょこちょいときているので、ちょっと油断しようものなら何かとやらかしてしまうのだ。
例えば、野菜炒めを作っていたときのこと。「今日は仕上げにこれを入れよう」と、私は天かすの袋を取り出した。頭に浮かんでいたのはカリカリ食感を楽しめる炒め物だった。
袋を開け、中身をパラパラとフライパンに投入。出来上がりを想像し、ワクワクしながら炒めた。しかし、何か様子がおかしい。香りも、手に伝わってくる感触も、天かすのそれではなかった。
事実を知った私は愕然とした。フライパンに入っていたのは天かすではなく、乾燥わかめだったのだ。
食べてみると、がっかりな味だった。カリカリ食感など、当然ない。それでも夫は、この失敗を優しく受け止めてくれたのだった。
こんな私が料理担当だなんて、今思えば無謀だったかもしれない。食べるほうも恐ろしかったことだろう。
それなのにこうして挑戦できている。夫には感謝しなければならない。彼が家族として温かく見守ってくれたから、安心してあれこれ試せた。安心して失敗できた。時には失敗を笑い合うこともできた。家族という存在が、私を育ててくれたのである。
気が付けばもう10年以上料理担当を続けている。今も失敗はあるけれど、成長は止まっていないし、どうにか2人で支え合うことができている、と思う。
自分の時間を優先してもいい
とはいっても、いつだって完璧に支え合わなければと考えているわけではない。「お互い自分の時間を大切にしよう」というのが我が家の方針だ。
できる限りそれぞれの役割を果たす必要はあるけれど、ほかにやりたいことがあるのであればそっちを優先してもいい。疲れているなら、何もせず休んでもいい。
夫にぜひともお願いしたいということがあっても、彼がその気になれなかったりすると断られる。そのときは「困ったな」とは思うけれど、それでいい。ヘルパーさんの力を借りるなど、ほかにも選択肢はいろいろあるのだ。
私も同じように、気分が乗らないときはやらない。やりたくないことはやらない。
料理にしても、実は熱心にやっていたのは最初だけ。今はもっぱら「いかに楽をするか」重視で、マイペースに取り組んでいる。
適度に努力し、適度に力を抜く。もしかしたら力を抜きすぎなところもあるかもしれないが、これが私たちにとって、ちょうどいい。