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自立と依存① 自立できなかった私たち。これって自業自得なの?

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2021.3.25

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。これまでの暮らしから振り返る、自立とは何か、依存とは何か。母と私、二人でなんとか自立して、自分たちの力だけで生きようとしたけれど、できなかった。これは自業自得なのだろうか。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

深夜、友人からLINEがきた。

「眠剤飲んだけど、まだ眠れなくて」。

久々の電話だ。最後に会ったのはいつだっけ。遠くに暮らす彼女とは年に数回しか会えない。コロナになってからはずっと会えないままだ。

私は身体に褥瘡があるため長時間車椅子に座れず、朝方と夕方に睡眠を分けており、夜になってから執筆を始める。

締め切りまでまだ余裕があったので、彼女が眠れるまで付き合おうと思った。

何がきっかけだったか、依存についての話になったことを覚えている。私はつい恋愛に依存してしまうことを話した。彼女は言う。

「私は、人より物に依存するかな。お酒や安定剤。人から救われたことってなくって……」

可愛らしい声をした彼女は、声に似合わず老成していて、いったい何歳なのかわからない。

「でも、依存はされるかもしれない。昔、友達が死んじゃったから、それがトラウマで。相手に言葉を尽くしちゃう。介護するみたいな。言葉に嘘があるから、あとで自己嫌悪する。……けれど、そういう私も依存しているのかもしれないね」

いつでも丁寧に言葉を選び、的確にものを言う、まるで達観したような彼女を私は尊敬しているので、少し意外に感じたが、よくよく考えてみれば、だからこそ丁寧な言葉づかいになるのだと気がつく。

「じゃあ、対等な関係ってどんなものだと思う? ギブ・アンド・テイクってことなのかな」
「言いたいことが、言い合えることかな」

眠剤の効かない彼女になかなか眠りは訪れなくて、私達はお酒を飲んだ。お酒に弱い私は、不覚にも先に眠たくなってしまった。

彼女はお酒にもめっぽう強くて、けっきょく彼女が眠れたかどうか、覚えがない。

カーテンの隙間から少しだけ光が漏れていた。空は白み始めていた。

「人に優しくできたらいいよね」
彼女のその言葉が強く印象に残った。



私は自立できているのだろうか、とふとしたときに考えてしまう。

大人になった実感の薄いまま、少しずつ歳をとって、30歳手前まできた。

仲の良い知り合いはほとんどが年上で、まめちゃんはまだまだ若いよ、と言うものの、それでもやはり、もういい加減大人にならなきゃいけないのに、と焦りが募る。

不安定な生活の中で、仕方がないとはいえ結果的に好きなことばかりやって我を通し続けている自分。

友人らの結婚報告も増えてきた。すでに数人の子供を育てている人もいる。取り残されていく感覚はゼロとはいい難い。

少なからず恋愛はしてきたし、一度は結婚して離婚も経験した。その後も結婚しようと言ってくれる人もいた。けれど結果至らなかった。最終的には自分のやりたいことを優先してきた。

すべてを求めず、足りないところは他で補い、あることを有難がりなさい――と言ってくれる大人もいて、なるほど、まったくそのとおりだと思う。

結局は他人に多くを求めすぎているのかもしれない。少し子供じみているのかも、とも思う。

10代の頃の私も、焦っていた。とにかく早く、大人になってしまいたかった。

その頃の私にとって大人になることとは、経済的に自立した社会人になること。なんでも自分で出来て、人の迷惑にならないこと。

親に依存して生活しなければならないことが苦痛だった。

シングルマザーだった母は、エネルギーに満ち、働き者だったが、どこか幼い少女のような人で、時折私を惑わせた。

小学生の初めての遠足の時、水筒に私の好きなジュースが入っていた。水筒には水かお茶しかいれてはならないというルールがあって、保護者あての知らせにもそう明記されていた。

帰って母にそのことを告げたが、母は「お知らせには水とお茶はいれてはいけないと書いてあった」と言い張った。

母は外国人で、当時は日本語の読み書きが不自由だった。ふくれっ面の彼女をそれ以上追い詰めることも出来ず、それから、保護者あての知らせは必ず自分が目を通し、内容を口頭で母に伝えるようにした。

私と母の関係は端的に言ってそういうものだった。

母は、まったく愛情がないというわけではないようだが、それはなんだかいつもズレていた。

憎めないが、現実問題、つらい。

私が余裕のある大人であればきっと、可愛い人だと思えていただろう。実際、愛嬌のある人だと思う。

しかし、本来保護されるべき力のない子供には、場合によっては大げさではなく命取りだ。

言葉がカタコトだった母は、外にはけ口がなかったのだろう。一緒にいるときは仕事の愚痴、昔の自慢話を聞かされ、私の話を聞いてもらえることはなかった。

母の仕事が遅い日は、私が食事を作り、お風呂を沸かした。

運動と数学は大の苦手だが、それ以外は割と器用で、何でも自分で出来た。聞き分けがよく、手のかからない子供だったと、母は言う。

そうだろうね、と我ながら思う。

どちらが保護者でどちらが子供だったかわからない。倒錯していた。

大人たちは面倒見のいい私を褒めたが、それに愚痴をこぼすとすぐにたしなめた。「大変なお母さんを支える優秀で親思いの娘」という美談が好きなようだった。

確かに、良く言おうと思えば、支え合って生きているとも表現できた。

運動会で、親子二人三脚という競技はなかっただろうか。私はあれが嫌いだ。

お互いに足を縛り付けられて、身長も合わないのに無理やり肩を組まされ、他の親子と不自由に競争をする。

あれを見て喜び、盛り上がり、ときに涙する風潮。一体何だったのだろう。

「親子二人三脚」で貧しい生活を脱しようと、外では「男」のように競争した。そして家の中では「女」のように家族をケアすることを求められる。

これだけお前のために尽くしているのだから、と、母の期待と要求は大きくなる一方で、確実に私は疲弊し、思春期ということもあり、母から逃れたくて仕方がなかった。

そういう生活に耐えきれなくなって16歳の冬、私は飛び降りた。


Illustration by Toshiyasu Ninomiya


首の骨を折ってすっかり役立たずになった私を母は腫れ物に触るかのように接した。別段ショックは受けない。ただ、二度と一緒に生活したくなかった。

もう少し生活に余裕があれば違っていたのだろうか。

優しい父がいれば? 母が在日外国人でなかったら? 私が男だったら? 私がもっと出来の良い子供だったら?

色んなことを考える。母はパチンコに依存していた。お金がないのはそのせいもあったのだと、私は大人になって気がついた。

けれど、パチンコがなければ生きてこれなかった、と母はこぼしたことがある。そうだろうとも思う。

母の依存にはうんざりさせられていた。ハマると連絡がつかなくなる。約束すらもすっぽかされる。勝つと浪費し、負けて帰ってくると機嫌が悪い。いくら咎めても聞き入れてもらえない。

さんざん嫌な思いをさせられたが、母の苦労を間近で見ているから、母をただ悪者にすることは私はできない。

なにかすがるものがなければ耐えられないくらいに、母は追い詰められていたのだろう。

女二人、なんとか「自立」して自分たちの力だけで生きようとしてきた。けれど、できなかった。

それは、自業自得なのだろうか。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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