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自立と依存⑤自立とは「何でも一人でできるようになること」ではなかった。

2021.4.22

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。「社会モデルの自立」の実践の中で、本当に変えるべきなのは自分の考え方だったという気づき。自立とは何か。甘えとは何か。自分ひとりではできないことがあって、ひとりきりでは生きていけないことを自覚することから始まる。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

見様見真似の社会モデルの実践の中で、本当に変えるべきなのは自分の考え方なのだと気づいた。

「障害とは個人の問題なのであり、困りごとは本人の努力不足によってもたらされている。他者に頼ることは恥ずかしいこと、迷惑なことで、だからどうしようもなく困ったときに助けてくれる人々には感謝をしなければならない。可哀想の範疇の中で同情されながら、健気に頑張る姿を見せて生きなければならない」。

そういう「べき」「ねば」に縛られていたのは自分自身だった。

社会モデルを実践した暮らしがしたい、自由が欲しいと血縁の家族からの介護を拒否した私だったが、結局のところ、「恋人と結婚=円満な家庭」という幻想から、その自ら築いた新しい家族への依存を期待していただけだったのではないか、などと自分を疑ってしまう。

確かに「強要される他者への感謝」も「謙虚と言いかえられた自己卑下」も、差別のある日本の社会で障害者として生き延びていくためには、必要なものでもあるのかもしれない。

しかし、いくら生き延びるためとはいえ、それに囚われ、自分らしくいられないことで誰かと一緒に居ても孤独で、息苦しさや生きづらさを感じてしまうなら、一体何のために生きているのか。


心のうちに刷り込まれてしまっている自分自身への差別心や自己否定から解放され、今までの価値観を変えることは並大抵のことではない。

開放される・自己を変えるということは、自らの殻を破ることだ。だが、殻自体も私なわけで、それには破壊の痛みを伴う。

抑圧によって生まれた自己否定という殻だって、そもそも自分を守るためにあるのだ。それを破るのはある意味で徹底的な自己否定とも言える。

私にとっての心の社会モデルの実践、自己改革のための具体的な行動といえば、結果として、まずは退職と、一人暮らしを始めたことだったかもしれない。

せっかく得た仕事を手放し、大切なパートナーとの別れを選択した当初はとてつもなく苦しかった。

真の孤独、夜の闇の濃さに怯えた。今まで仲良くしてきた人たちが少しずつ離れていった。間違っていたのではないか、私がおかしいのではないか、と不安になった。己の弱さが剥き出しになり、取り乱すこともあった。

何にも依らずに一人立たねばならない。

それは介助を受けないとか人を頼らないということではない。ほんとうの意味で誰の支配も受けないということ。自分のことは自分で決めること。

つまり、人を頼るときは受け身ではなく積極的に、主体的に頼るということだ。自分が何をしたいか明確にし、何をどうしてほしいかきちんと伝えること。伝え方に配慮こそすれ、伝えること自体を恐れないこと。

なかなか、難しいことではあったが、いざ勇気を出してやってみると、他者への不満は減り、むしろ気持ちよく感謝することが増えていく。

他者や世間がどうかでなく、私がどう感じて何を思ったか、言葉にしていくことで、今までよくわからなくなっていた自分の好き嫌いをはっきりさせていった。

心惹かれるものに手を伸ばし、興味のないものは手放していく。自分にとって居心地のいい空間とは何かを考え、周囲の環境を少しずつ整えていくと、それまであまり頓着せず、施設の中の暮らしと代わり映えしなかった生活が途端きらめき始め、楽しくなってきた。それは人間関係も同様だった。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


そもそも「間違っているか/正しいか」で物事を判断することに問題がある。自分と他者は同じではない。同じように思う必要はない。

もしかすると私は、他者を自分と同一視しているところがあったのかもしれない。

「違う」と思うことは寂しいし、冷たいことだと思っていた。でも、「同じ」と思いたいときでさえ、寂しかったし、孤独があった。自分さえ我慢すればいいのだと抱え込むことで、自らを孤独にした。

自身がこんなに卑屈で、一体どうやって幸福になり得るだろう。これではいつまで経っても不満はなくならない。本当に我慢を強いられているか? 自分が勝手にそうしてしがみついているだけじゃないのか。

「インドアは暗い、着飾ることは贅沢だ、お前の書く文章は排泄物でまだ読むに値しない」。

たしかにそう思う人もいるのだろう。けれど私はそう思わない。それだけでよかったのだ。

仮に自分が正しいと思っていたことが間違っていたとして、何が悪いだろうか。間違う権利というものがあることを、自立生活の中で知った。自分自身が間違いだったと気がついたときに、正せばいい。

価値観が違うときに人と距離をとって正解なのだと思う。どちらかが頑張って無理に合わせるまでして一緒にいる必要はない。違うままでも尊重しあっていられるほうがいい。

そんな気づきがあった。考えれば簡単なことだ。どうしてこんな簡単なことに気がつけなかったのだろう。

しかし、それまでの私が無駄だったとは1ミリも思わない。それまでがなければこの気づきもなかったわけだ。

私は生きることに精一杯だったのだから。

そうやって少しずつ、生きる力を貯めてきた。子供時代のやり直しのようなものだったかもしれない。

保護される存在というものは、愛されているからこそ、そこにいられる。形はどんなであれ、私は間違いなく愛されていたのだ。

そうでなければどうして生きて来れたろう。少なくとも死にたいとは思わなかった。死ぬ思いもしなかった。そして時が来てようやく本当の自立へと向かうことができるようになった。

それは、他者から愛されずとも(保護されずとも)、自分で自分を愛し、大切にできるようになったということだ。だから、自分のために怒ることが出来るようになった。他者を信じられるようになった。自分が生きることに対して責任を持つようになれた。これこそ本当の自立ではないか。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


自立とは、何でも自分ひとりで出来るようになることではない。時には自分ひとりではできないことがあって、ひとりきりでは生きていけないことを自覚すること。上手に他人を頼れるようになること。

甘えとは、自分ひとりの力で生きている気になること。自己を確立できず、他者と一体になっていると、ここを勘違いしがちになるのではないか。自分ばかり損をしている気になって苦しいとき、他者に対して過度な期待をしていないか、自身を点検する必要がある。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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