筋ジストロフィーの私が経験した「やりがい」を大切にして「体調」で苦しんだ社会人生活
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2021.4.30
障がいと夢の間で悩み苦しんだ就職活動を終え、愛知の広告代理店に入社した私。そこで待っていたのは、理想と現実があまり乖離していない、なんとも幸せな社会人生活でした。それにもかかわらず、なぜ4年で退職してしまったのか。当時の記憶を振り返りながら紹介していきます。
執筆:高山 あっこ Akko Takayama
仕事にも周りにも恵まれた社会人生活
入社して1ヶ月。基本的な新入社員研修を終え、コピーライターの適性を測るクリエイティブ試験に合格した私は、念願のコピーライターになることができました。
ずっと夢に見ていたコピーライターとしての仕事。おおむね思い描いていた通りの内容でした。
電車に乗れば自分の制作したポスターを見かけ、テレビをつければ自分が企画したテレビCMが流れる。休日出勤や徹夜がありハードな面もありましたが、それ以上にやりがいや達成感を感じられる毎日でした。
病気の面でも、「できないことや大変なことは当たり前のようにフォローをしてもらいながら、他の同期と対等に扱ってもらえる」という有難い環境が整っていました。
恵まれていたのは仕事面だけではありません。
時に厳しく、時に優しく指導を行ってくれる上司や先輩。病気のことでクヨクヨしていると、お茶に誘ってくれ、じっくり話を聞いてくれる人事の人。夢も愚痴も共有できる同期。
終電ギリギリまで付き合ってくれる趣味の合う仲間。
誰一人知り合いのいない土地に飛び込んだにも関わらず、いつしか私の周りは気の合う仲間や尊敬できる上司や先輩でいっぱいになっていました。
越えられなかった壁
公私ともに充実した日々を送っていたはずでしたが、3年目を迎えた頃から病気が原因となるひずみが少しずつ生じてきました。
「クライアントへ行ってヒアリングをしたほうがよさそうだけど、あそこは階段だしやめておこう」「撮影場所を決めるのは、坂も多いし結構歩くから人にまかせてしまおう」「この企画は面白いけど、ロケになるからしんどいな」など。やるべきことは分かっているのに、障がいが足かせとなり、ベストな選択をできない思考回路になっていました。
その小さなひずみは、明確に仕事の差につながっていきました。後輩や同期のほうがいい企画をだしたり、技術を習得したり、信頼を得たり。
夢だった仕事をしているはずなのに、常に病気のことが気になる状態。100%の力でぶつかれないもどかしさや、結果が出せない悔しさが自分の中でどんどん膨らんでいきました。
「できない人とレッテルが貼られる前に、後輩や同期と圧倒的な差がついてプライドがボロボロになる前に逃げてしまおう。」
「がむしゃらにがんばる」という選択肢もあったのかもしれませんが、「他の人と対等に扱かってもらえている」というプライドを捨てられなかった私は、会社を辞めるという結論にたどり着いてしまいました。
人生で1番大きな挫折です。
居場所があった4年間のコピーライター生活
「会社を辞めたい」と直属の上司に相談したとき、「残念だ、悔しい」と涙を流してくれました。体に負担のかからない働き方も提案してくれましたが、バリバリでキレキレのコピーライターに憧れてきた私にとって、違う形は受け入れられませんでした。
出社をしたら、みんなが「おはよう」と言ってくれ、デスクに小さなおかしが置かれていたり笑えるいたずらがされていたりする。みんながあだ名で呼んでくれ、スマホの写真フォルダも着信履歴も会社のメンバーで溢れている。
「私」という人間をきちんと見てくれる人がたくさんいて「確かな居場所」があった4年間のコピーライター生活でした。
まとめ
障がい者採用でありながらも、仕事にも周りにも恵まれた4年間。思い出だからこそ美化されているのかもしれませんが、22年間まじめにがんばってきた「ごほうびのような時間」だったと思います。
同時に、せっかく私を理解し受け入れてくれようとしていた環境があったのだから、プライドを捨て妥協点を探す努力をすればよかったと「大きな後悔」も残っています。
退職の際に上司からもらった「君には、ずっと何かを書いていてほしい」という言葉は、今でも私の背中を押してくれている宝物です。いつか胸を張って「こんなおもしろいこと書いているよ」と報告できればいいなと思っています。