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合理的配慮が完璧に為された環境は、障害者にとって生きやすいのか?

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2021.6.24

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。もし合理的配慮が社会に完璧に為されたとしたら、この社会は障害者にとって生きやすくなるのか。「あらゆる障害にとって」は難しいかもしれないけれど「自分の障害にとって」で考えてみたときに気づいたこと。考えたこと。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

このタイトル、「合理的配慮が完璧に為された環境は、障害者にとって生きやすいのか?」は、担当の編集者S氏から与えられた今回のコラムのテーマである。難しすぎませんか…!?

社会運動に興味があり、知り合いにもアクティビストがいる私としてはイエス一択しかないのだが、ちょっと立ち止まって考えてみようと思う。

哲学者バートランド・ラッセルは「人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」と言っている。

社会運動は結果的に不幸を作り出してるってことですか?と問い詰めたくなるような言葉だ。人々が幸福を追求し、長い時間をかけて獲得してきた豊かさは、むしろ人々を不幸にしたのだろうか。そんなことはない、と言いたい。

ここでラッセルが言いたかったのは、生きる目標の喪失のことなのだろう。

多くの人々にとって今の社会は人生を捧げるべき大義を与えてくれない。生きることそれ自体に何か意味を見出すことが難しい。なのに、やれ競争だの成長だの、立ち止まっていることは許されない。

やりたいことが明確にあればいいのだが、そういうものがないと、とにかく何かをやらされるだけになってしまう。

だから他者に評価を委ねるしかなく、自分が自身の存在の価値を感じることが出来ない。実存レベルでの生きづらさがある。

しかし障害者などのマイノリティと呼ばれる人たちにとって見れば、まだまだ社会にはよくすべき部分が多くある。活動家たちが生き生きして見えるのも、戦いに身を投じているからなのではないか。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


また、我々障害者にしてみれば、競争から締め出され、そもそも皆と同じようなスタートラインに立たせてもらうことがない。

以前、JR乗車拒否問題が話題になったように、私たちは電車に乗ることすらも普通にできないのだ。

私の例で言えば、学校は車いすの対応不可だったし、仕事も見つけるのも難しい。お金がないからとりあえずアルバイトに応募、なんてことは気軽にできない。ヘルパーを使っての通勤や通学も認められていない。

そのため障害年金などの公的な補助があるわけだが、ひとりで自立して生活するには足りない金額になっている。あくまでも家族との同居を念頭においた制度設計なのだろう。

それでは、彼らの戦いが実を結んで、合理的配慮が完璧に為された環境が得られたとする。

すると障害者の暮らしはどうなるだろうか。

たぶん、考えるに、すべての障害者が完璧な合理的配慮を得られることはないだろう。

例えば点字ブロック。視覚障害者にとっては必要な配慮だろうが、車いすの人間にしてみれば道端の凸凹は邪魔でしかない。

また、歩道の段差なども車いすには困りものだが、目の見えない人にとってはあると助かるものらしい。

誰にとっても使える設計のことをユニバーサルデザインと言うが、誰にとっても便利というわけではない。

「誰も取り残さない」包括的な配慮やその努力は必要だが、現実問題、どうやってもその隙間からこぼれ落ちてしまう。

ここを深堀りすると別の話になってしまうので、とりあえず、私にとって都合のいい合理的配慮が為されたとして妄想してみようと思う。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


公共交通機関使い放題、学校行き放題、仕事やり放題。

え、めっちゃ人生充実するくない? 

わくわくしかない。

学歴もなく不安定な収入で暮らしている身にしてみれば、世の中に正式にエントリーできる機会がさらに多く得られるならば、それはそれでチャンスだ。

ん、待て待て、「チャンス」とは?一体何の「チャンス」だというのだろう?

個人的には背負った借金をさっさとどうにかしたいとかそろそろ別のところに住んでみたいとか、色々と細々したことはあるのだが、結局のところ、自立していい職を得て、そこそこ安定した収入を得、場合によっては結婚したり子供を作ったりして、安心の老後を迎える、ということか。そのためにより多くのお金を得られることに越したことはないが…。

うーん、つまるところ、健常者が抱いているおんなじ問題にぶち当たってしまう。

しかも、障害を言い訳にすることはできないし、少々見栄も張りたくなるだろう。今享受している貴族のような気楽で優雅な暮らし(?)も失われてしまうかもしれない。なんか一気につまんなくなっちゃったな。

幸せのお手本が失われた時代に私たちは生きている。私たちの親以上の世代が当たり前だった幸せの形を実現するのは経済的になかなか難しい。

韓国では「七放世代」という言葉があり、若い世代の失業率が高く、「恋愛」「結婚」「出産」「就職」「マイホーム」「人間関係」「夢」の7つを諦めざる得ない世代のことを指すのだという。

日本だと「パラサイトシングル」や「さとり世代」が似たような言葉に当たるのだろうか。

中国では「寝そべり族」という向上心がなく消費もしない、お金が必要なときだけ働き、あとは寝そべって遊んで暮らす若者たちが現れたらしい。

あはは、これ、私の生活とそんなに変わんないじゃん。

そこで思う。資本主義社会からはじき出された障害者の暮らしこそ、幸せのモデルになり得るのではないか?

インクルージョンだのダイバーシティだの誰も取り残されない持続可能な成長だの、そんなものの外側に、真の自由や「生きやすさ」があったりして。

オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」という古典SFがある。

人類は不満と無縁の安定社会を築いており、誰もが社会に疑問を抱かず、幸せに暮らしているという近未来のお話なのだが、「共有・同一・安定」をモットーに運営されるそんな社会に埋没できない野蛮人と呼ばれる人々がいる。

そのうちのひとりは大統領に向かって言うのだ、「僕は不都合な方が好きだ」「不幸になる権利がほしい」と。

もちろん、合理的配慮は必要だと思っている。社会運動を否定するつもりはまったくなく、むしろ世の中の差別はどんどんなくなるべきだ。

しかし、その先にある社会のありようを、手にした権利の行使の仕方を、自分にとっての幸せを深く考えていくのも必要なのではないだろうか。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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