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わきまえない女、わきまえない障害者。世間は謙虚であれと言うけれど

2021.7.22

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。会社勤め、起業、フリーランスとさまざまな働き方を経験してきた中で気づいた「謙虚」の重要性。女性、障害者という属性にいるからこそ、時に過剰に求められる謙虚さとはなにか?どのような振る舞いが大切なのか。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

今年2021年2月、「わきまえない女」というハッシュタグがツイッターのトレンドに上がった。

東京オリパラ組織委員会の森喜朗会長の女性蔑視発言をめぐってのことで、多くの共感が起こった。

女性は控えめで奥ゆかしい態度を取るべきだというジェンダーバイアスによって女性は長い間、男性以上に謙虚の規範を押し付けられてきたが、#Metooの世界的な流行もあって、世の中の流れは大きく変わりつつある。

一方、4月には車いす当事者のコラムニスト伊是名夏子さんが自身のブログで「JRで車いすは乗車拒否されました」と発信。

利用した駅がエレベーターのない無人駅で、降りようとJRに介助を求めたところ拒否され、合理的配慮を求めたという出来事を詳細に書いた記事だったが、ツイッター上で炎上が起こり、伊是名さんのもとにはいまだ多くの誹謗中傷が投げつけられている。

「わきまえない障害者」はまだまだ理解されにくいのが現状だ。

ツイッターでは、合理的配慮をなされるためには障害者は謙虚であるべきだという声も多く上がった。

「電車に乗る時に車いすなら待たされて仕方がなく、事前連絡も当然。我慢するべきだ。わきまえたほうがよい」というのは、なんと当事者からの投稿にも見られた。

もちろん、一枚岩ではない障害者から多様な意見が出てくるのは当然のことだが、しかし、「わきまえない障害者は配慮されない」でいいのだろうか?

私もその当時、いくつか伊是名さんへの連帯を示すようなツイートを行ったが、全く知らないアカウントから多くの否定的なリプライを受けた。

「JRの職員がかわいそう」「財源的に厳しい」などという合理的配慮を怠った企業を擁護するものが目についた。

JRの職員でも経営者でもないのに、わざわざ私にそれを言いつけてくる神経はそもそもよくわからないのだが、それならばJRがエレベータの有無や無人駅であることをHPなどで情報公開しておけばよかったものをと私は思う。

私も地元のとあるJRの駅で、降りてからエレベータがないことに気づくことがあった。当時は障害者団体に所属していたため、せめて情報を公開してほしいとJRに要望を伝えたことがあるが、改善はされなかった。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


今まで仕事の上での「謙虚」についてあれこれ考えてみたが、謙虚という状態は規範として押し付けたり、なろうとしてなったりするものではないということは前の記事で書いた。

謙虚とは、客観的に見たありのままの自分を理解し認めている状態をいう。

謙虚であれば本来、他者も自分も、自己の価値観に基づいて勝手に裁くことはないはずである。

「謙虚であれ」という言葉はしばしば弱い立場の人、少数者を黙らせるために使われてしまう。それは誤った謙虚だと私は思う。

「謙虚」を規範として押し付ける「謙虚な人」を、私は傲慢だと思っている。

その態度は、自分が特権的立場にあることをよくわかった上で、黙っていても自分のことは誰かが評価してくれる、優遇してくれるはずだという姿勢を表している。

そうでない人は声を上げなければ待遇はよくならない。それを「謙虚さが足りない」「わがままだ」だと言ってしまえるのは、どれだけ自分が「偉い」かを傲慢に威張り散らしているのと変わりない。

また、過ぎた謙虚は、道徳的態度であるふりをした妬みだったりする。痩せ我慢は徳が高いのだと自分で自分を不幸にする上に、他人にまでそれを強要してくる禁欲主義である。

差別によって同じ不利益を被っているはずの障害者までもが「わきまえろ」と言うのは、「わきまえない障害者」に対する妬みであり、「お前も私と同じように不幸でいろ」と言っているに過ぎない。それのどこが謙虚な姿勢であろうか。

「わきまえない障害者は合理的配慮をされない」というのは、要するに、自分に都合の悪い存在への否定であり、仲間外れであり、いじめと同じだ。

「支配されるべき」「弱い立場の」人間が自分の思い通りにならないのが気に入らないのだ。

だから自尊心を削ごうとしていじめを行う。それは他者の排除であり、差別に他ならない。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


分かり合えない人とは無理に分かり合わなくても済む時代になってきた。

人々は複数のコミュニティをうまく使い分けて生活している。仕事場も、終身雇用制度はもはや一般的ではなくなり、今や多くの人が転職を経験し、副業をしている人もいる。

いくつかの職場を掛け持ちしていたり、フリーランスとして活動したりする人間も珍しくない。パラレルワーカーやギグワーカーという言葉も聞かれるようになった。

特に障害者は、何のために働くのか?が健常者に比べても少しゆるい立て付けになっている。

多くを望まなければ、無理に働かなくとも、社会保障に頼ることによってどうにか生活はできる(今のところ、だが)。

「ここ以外では生きてはいけない」ことはなくなった。固定のコミュニティ内で神経をすり減らしてまでどうにかうまく付き合っていく必要はない。

しかし、だからこそ対人スキルが問われている時代でもある。

今や縦社会でなく、対等な人間関係が重んじられる。小さな社会では幅を効かせたであろう肩書も広い世界では通用しない。

信頼を積み重ねず、他者をいじめて支配下に置くことにはメリットが生じない。

「ここ以外では生きてはいけない」ことがなくなった社会では、そんな人からはどんどん人が離れていくだけだ。

今の立場にしがみついて社会や他者に関心を持たず、失敗を恐れて何もせず、邁進する他者の足を引っ張る人も同様だ。

ルールが好きな組織の話を前回の記事で書いたが、これからは、ルールや規範に縛られず、他者の痛みを知り、肩書に囚われない信頼関係の積み重ねこそ、仕事や生活をより豊かなものにしていくだろう。

今こそ本当の「謙虚」が求められている。それはもしかしたら、抑圧に対して沈黙を破り、「わきまえない」ことなのかもしれない。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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