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文化系重度障害者から見えるパラリンピック①私とパラスポーツ

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2021.8.19

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。まもなく始まる東京パラリンピックについて、運動音痴で陰キャな文化系重度障害者という立場から考えてみたい。とはいえ、私自身は就職のためにパラスポーツの世界に飛び込んだ経験があるのだが。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

はじめに

「今月の記事はどうするか」というオンラインでの打ち合わせで「豆塚さん、パラリンピック批判するなら今ですよ」と編集者S氏はにっこり笑って言った。

あたかも私が批判するのも当然と決めてかかった態度だが、確かに私はパラリンピックというもの自体にちょっと捻くれた感情を抱いている。完璧な営業スマイルでちょいちょい身も蓋もない毒を吐いたり難しいお題を押し付けてくれたりする素敵なS氏は、なんと今回のパラリンピックのとある種目にて日本代表選手に選ばれた。

「豆塚さん界隈だとオリパラ開催に関して様々な意見が渦巻いてそうですが」と抜かり無く前置きしつつ「コンディションを整えて精一杯戦ってきます」とのこと。

正直なところ、今回の東京オリパラに関して言えば、開催をずっと反対してきた。

もちろんコロナの問題もあるし、猛暑の中での開催にも疑問符がつく。度重なる不祥事にも幻滅させられ、このような状況で世界中の人々を「おもてなし」出来るとは到底思えないのだった。

スポーツにあまり興味がない私ではあるが、多くの税金を投入し国を上げてやると言うなら一市民として無関心ではいられない。本気でやる気があるなら、国はもっと真摯に様々な問題と向き合い解決していくべきだろう、と思っている。結局オリンピックはメダルのニュースも含めて一度もテレビを観なかった(名古屋市名物メダルかじり虫は別だが)。

とはいえ、選手たちの頑張りというのも別の次元にあるのは確かで、特にパラリンピックは、少なからず障害当事者としての連帯感はある。

開催前から盛んに「レガシー」という言葉が飛び交っており、レガシーって「遺産」って意味なのに遺す前から語られる遺産って何やねんと、言葉を扱う手前、非常に不愉快に感じつつも、やはりパラの影響で期待される都市のバリアフリー化だったり、世間の障害理解の促進だったりには興味は惹かれる。

私個人としては、東京パラが開催されるからこそ得られた仕事というのも今まで多分にあった。

私はS氏を問い詰めたり責めたりは出来ないのであった。

「出場おめでとうございます。開催に関しては反対ではありますが、選ばれて出場されることは喜ばしいことですし、開催される以上は是非応援したいです。頑張ってください!」と生暖かい立場をとった。

と、前置きが長くなってしまったが、個人的に複雑な思いを抱えた東京パラリンピックについて、運動音痴で陰キャな文化系重度障害者という立場から言及してみたいと思う。


パラスポーツと私

パラリンピック云々の前に触れておきたいのが、パラスポーツ(障害者スポーツを広く指す)のことだ。

パラスポーツは視覚障害者・聴覚障害者・身体障害者・知的障害者・精神障害者と大まかに5つに分けられ、それぞれ歴史・組織・大会・取り組み方が異なっている。

だから私は身体障害者の立場でしか語れないのだが、身体障害者にとってのパラスポーツは、そもそもリハビリの一環として普及している部分が強いように私は理解している。

子供の頃から運動は音痴で嫌いな私ではあったが、怪我をして障害を負い、リハビリのため病院と障害者施設に数年居た私は、そこでパラスポーツと出会うことになる。私が取り組んだのはツインバスケットボールと車いすマラソンであった。どちらも県内で行われている大会に出場する程度には取り組んだ(真面目)。

パラスポーツが何よりも特徴的なのは、障害区分がとても細かいことだ。当たり前だが、障害と一言で言っても、障害の程度は人それぞれだ。たとえ同じ障害であっても、個人差は大きい。そのため区分を設けて分けることによって個々の障害が競技に及ぼす影響をできるだけ小さくし、平等に競えるようにしている。


▲障害者施設内で行われたツインバスケ体験会の様子

ツインバスケと私

例えばツインバスケは、下肢だけ(通常の車いすバスケ)でなく上肢にも障害がある人のためにルールが作られている。ここでは長くなるので細かいルールのことは割愛するが、選手は障害の程度によって3区分され、それぞれルール上のハンディが課せられる。

ゴールが通常のゴールと1.2メートルの背の低いゴールと2つあり、選手は障害の程度によってシュートしてよいゴールが違う。それによって健常者から四肢麻痺の重度障害者までがいっしょに競技を楽しめるようになっている。

もちろん正式の大会では健常者の出場はできないが、健常者と重度障害者が混ざったバスケで白熱した試合が可能なんて、なかなかにすごい発明だと思う。

試合の中で重要になってくるのは選手同士のパスワークだ。キャンバーが付いて幅を取るバスケ車では、身軽に相手のディフェンスを避けることが出来ず、オフェンスは簡単に進行を阻まれてしまう。障害の軽い選手が身体能力だけでボールをシュートまで持っていくということはまず不可能だ。そのため自分のコートまでボールを運ぶチーム全体の技術がいる。上肢に障害がある選手もいるので、お互いの障害を理解していなければうまくパスが繋がらない。

また、ゴールが2種類あることによってゲームが複雑さを増し、展開が読めない。障害の程度の軽い選手が上のゴールに決めようとしたボールを、防御がガラ空きだった低い方のゴールに待機していた障害の重い選手にパスして決まる、なんてこともよくあることだ。決まるかどうかわからない上のゴールに投げるよりも、障害の重い選手が下のゴールに確実に入れる。誰しもがポイントゲッターになれ、活躍の場がある、それがツインバスケだった。

一見トロくて、どうにも迫力にかけるツインバスケだが、複雑で豊かなゲーム性、展開の読めない面白さなど、ハンディがあるからこそ目を凝らしてみれば浮かび上がってくる見どころが満載だ。そういった意味で、障害を理解するのにうってつけなのがパラスポーツなのだ(残念ながらツインバスケはパラリンピックの種目にはなっていない)。

子供時代、運動音痴なせいでスポーツをまったく楽しむことが出来なかった私でも、時にはシュートを決めてハイタッチを交わすなんてことが出来て、夢中になって競技に取り組んだ覚えがある。


▲大分国際車いすマラソンにて。雨の中を必死に走る筆者。

パラ陸上と私

パラ陸上にも細かい区分分けがある。例えばマラソンをやっていた私はトラック競技(T)の「切断・機能障害:車いす」に分類され(T51~T54)、腕は動くが指の曲げ伸ばしに制限があって自力で座位を保つことが出来ない、比較的重度なT52クラスだった。

このクラス分けにはかなりの正確性が求められ、私が出場したことのある大分国際車いすマラソン大会では事前に診断書に基づいた身体チェックがあった。

平等・公平のための最善の配慮であるこの障害区分が設けられたパラスポーツだが、私はむしろこれによっていかに人は多様で、平等でないかを知ったように思う。健常者とひとくくりにされて競争を強いられる人たちのことを、私はどうにも気の毒に思わざるを得ない。

ツインバスケはリハビリのために始めたのだが、車いすマラソンは実はそうではない。そもそも私は何より走るのが一番嫌いだった。学生時代、校内で行われたマラソン大会では、いつもビリに近いところにいて、きついしお腹は痛いし遅すぎて惨めだし、とにかく苦痛でしかなかった。そんな私が苦行でしかないマラソンに取り組んだのは、何よりも就職するためだった。

当時、受傷を理由に高校を退学させられ、大学進学の夢を絶たれた私はなんとか就職したかった。しかしハローワークでは「車いすの人間が働ける職場はない」とバッサリとやられてしまう。

この辺の自立のための奮闘は過去記事を御覧ください。



そんな私が当時お世話になっていた施設のソーシャルワーカーと画策したのが、「24時間テレビに出てくるような、社会に求められるキラキラした障害者になること」だった。

ホンダ太陽など、障害者雇用を積極的に行っている大手企業が実業団を抱えていることがある。私の障害クラスであるT52女子はそもそも競技人口が少ない。車いすマラソンはうってつけじゃないだろうか(私、天才かな?)。

実際、マラソンを始めると、あれよあれよと地元新聞社やテレビ局から取材が来る。初心者のくせに、照英さんがやってきて30分のドキュメンタリーまで撮られる始末。

飲み屋に行けばそこにたまたま居合わせた車いすの人に「車いすテニスやらない?」と名刺を渡されたり、施設を訪れたとある外国人パラアスリートから「パラリンピックを目指そう!」と励まされたり。いや、そんなつもりじゃないんですが、と圧の強さにタジタジしつつ、今までとパラスポーツを始めてからと、この扱いの差は一体何なのだ、と文化系一筋で生きてきた私は正直そう思ってしまった(チヤホヤされて、まんざらでもなかったけど…)。

マラソン大会出場のための特訓はおよそ半年間に及んだ。週3回2時間ほど、パラスポーツの先生の指示に従ってこつこつトレーニングを積んだ。もちろんきつかったが、自分なりに楽しみを見つけて真面目にやった。関門(時間制限)を越えられずに大会の結果は残せなかったが、そもそも関門を越えるのが難しいとされるクラスなので初心者なら仕方がなかったと思う。

しかし作戦が功を奏してマラソンのおかげで就職先が見つかり、無事私は自立することができた。

その後も練習を続けたが、支援がふんだんに受けられ、トレーニングする環境が整った施設内とは違って、自立生活をしながらマラソンを続けるのは難しかった。マシンを経験者に譲ってもらい、恋人を頼って練習に付き合ってもらったが、自分で気軽にマシンに乗れるわけでもなく、障害により体温調節が効かないため練習中の体調管理もなかなか難しい。練習場所も限られている。

多くの困難がある中、しかも人に頼らざるを得ないことも多くあり、本当に好きで情熱がなければ、やり続けるのは正直厳しいと思った。頑張って次の年の大会にも出場したが、それ以上は続かなかった。

以上が私の人生においてのパラスポーツとの関わりの全てだ。なんとなく、文化系重度障害者のパラスポーツへの感覚や温度感をわかってもらった上で、次回からパラリンピックについて論じてみようと思う。よかったらお付き合いください。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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