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文化系重度障害者から見えるパラリンピック③パラリンピックをどう見るか

2021.9.3

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。もうすぐ閉幕する東京パラリンピック。運動音痴で陰キャな文化系重度障害者という立場から考えてみると、オリンピックとパラリンピックの取り上げ方の格差、パラアスリートやパラスポーツをどのように伝えるかという点に違和感を覚えることが多い。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

パラリンピックも残すところあと数日。

連日、ニュース番組を見ようとテレビをつけると、障害者が映し出されている。車いす、切断・欠損、脳性麻痺、視覚障害。私の周りには身近にいるとはいえ、なんだか不思議な感じだ。

とてもキラキラと輝く存在として描かれる。アスリートだからそうなっても当然か。

純粋にこれが当たり前になればいいなと思う自分もいる。パラリンピック以外のパラスポーツ大会がテレビ中継される時代が来ればいい。テレビがやりがちな、いわゆるアスリートらしい紋切り型のインタビューはどうでもいいが、競技をしている彼らの姿はとても自然でいて、魅力的だ。

中継の解説者には一線を退いたパラアスリートを起用していることもあるようで、彼らの解説は聞いていて興味深い。競技をまったく知らない人にもきちんと伝わるよう細やかな気遣いも感じられ、パラスポーツの世界へと視聴者をぐいぐい引き込んでくれる。健常者のマイナースポーツを一から楽しむのとそんなに大差ない。



一昨日、脳性麻痺の杉村英孝選手がボッチャで金メダルを勝ち獲った。まだ全ての競技が終わっていないのでなんとも言えないが、パラリンピックで日本人選手が獲得しているメダルの数は、世界15位と伸び悩む。オリンピックでは世界3位のメダルラッシュだっただけに、この差はどうにも気になる。

別にメダルの価値にはなんの興味もないのだが、この事実には日本の障害者を取り巻く環境に要因があるのではと疑いを持ってしまう。

聞くところによると、メダル獲得の報奨金もオリンピックとパラリンピックとで格差があるらしい。世界がこの格差を是正しようという動きを見せる中、日本はむしろその格差を広げたのだという。

テレビでの扱いにも格差が見られる。オリンピック中はテレビをつければどこもかしこもオリンピック一色で辟易したものだが、パラリンピックはそこまでない。何もオリンピックのときのようになってほしいとは思わないが(というか、オリンピックの時のはしゃぎようが異常だった)、同等程度に扱ってもらえたら、と思ってしまう。



知り合いの義足のスポーツファンは「パラリンピックを観てもつまらないと感じることがある」と語っていた。いわく、健常者のそれに比べると迫力や臨場感に欠けることがある、と。これまた身も蓋もない意見だが、なるほど、観ている側の本音としてはあるかもしれない、と自分がやってきたパラスポーツを振り返って思う。

オリンピックに出場してもまったく引けを取らないであろう義足の選手まで現れるようになり、パラスポーツは競技色を強めてきているものの、それは一部の花形競技、比較的障害の軽い選手に言えることだろう。

ぱっと見て何が困難なのかがわかる、というのも、もしかして重要かもしれない。

切断・欠損の人は、あるはずのものがないという点でインパクトが強く、見た目に何が障害なのかがわかりやすい。見るからにごまかしようもなく「障害者」という感じだ。

ブラインドスポーツは基本、目隠しをして行うので、何も見えない状態でやるのだなと、観ている方には伝わる。そういう意味で、目隠しした状態でよくこんな事ができるな、と自分ごととして捉えやすいかもしれない。

しかし私の障害である頸髄損傷・脊髄損傷や脳性麻痺、知的障害の場合、どのような障害なのか、傍目にはわかりづらいことがある。

例えば私は四肢麻痺で手足に障害があり、胸から下が動かない。それだけでなく内部障害も多く抱えている。起立性低血圧、自律神経障害、排尿・排泄障害など(詳しくは過去記事を御覧ください)。


私が以前やっていたパラスポーツであるツインバスケットボールは、下肢だけでなく上肢にも障害がある人のための車いすバスケだ。

当たり前だが、車いすを漕ぐ上肢に障害があるので、どんなに鍛えても車いすバスケのようなスピード感、臨場感はない。観るほうにしてみればあんまりかっこよく見えず、しかも公平性を担保するためにルールが複雑になっているため、直感的に理解するのは難しい。

加えて上記のような内部障害を抱えた選手が多い。汗が出ず、また冬は身体が温まりにくく、パフォーマンスに常に差し障りがある。

多くの困難を抱えた上でスポーツをやっているのだ、と思って見れば、見え方も変わるかもしれないが、それを「かっこいい」と思えるかどうかはまた別問題だろうし、いかにして困難を乗り越えてこのコートに存在しているかを語ろうとすると、どうにも苦労話に傾きすぎる。

「感動ポルノ」につながっていくのをよしとしない人も多くいることだろう。実際、「障害者」としてでなく「アスリート」として評価してほしいという発言をしばしば耳にする。

障害者は「可哀想な人たち」ではない。私たちにとってはこの身体が普通なのだ。「可哀想な人たち」が頑張っていてすごい、とは思われたくないのが当然だろう。障害自体は克服するものではない。ただそこにあるものだ。

パラスポーツはそのバックボーンがわからなければ本質が見えない部分を抱えている。目を凝らし、想像力を働かせて観ることで楽しめる、そして誰もがプレイし体感しても楽しい、噛めば噛むほど味が出るのがパラスポーツであることは間違いないのだが。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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