面接を受けるために静岡県伊東市と東京を往復し続けた日々。働き始めることは楽じゃなかった。
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2021.2.16
視覚障害と四肢機能障害がある私が直面した、障害を理由になかなか働く先が見つからなかったときのこと、障害を理由に仕事がもらえなかったときのことを、そのときの心境やエピソードに合わせて書いていきます。
私の体験や感じたこと、私の考えをリアルに書き連ねることで、今後、障害者雇用の担当者の方が視覚に障がいのある方を採用しようと思ったとき、視覚に障害がある方が実際に企業で働くときに直面するかもしれない困りごとや心境、あるある話が伝わればいいなと考えています。
執筆:松田 昌美 Masami Matsuda
私の障がいと症状について
私の障害は、視覚障害と四肢機能障害ですが、これは私の母が私を妊娠中に、父との人間関係で悩んだ結果、早産になってしまったことが背景にあります。
予定よりも3か月早く産まれ、延命治療を受けた際の医療ミスによって、私は命と引き換えに視覚障害と四肢機能障害(主に両下肢障害)を負いました。
右目は4歳のときに失明し、今では光も感じない全盲です。左目は真ん中のみ視野があり、視力が残る範囲は鉛筆の芯くらいの広さ、透明のビニール袋からものを見るように視界が白く濁っています。現在は顔を近づければ、目の前に出された指の数や色が何となく確認できるような見え方をしています。
両足は延命治療時の影響で運動性障害(正しい姿勢を保って歩けない・走れない)や関節や腱の硬直化が進み、正しい身体の使い方を知ることなく成長しまいました。生活に支障が出てきたこともあり、数年前に右アキレス腱延長手術を受け、状況はだいぶ改善されました。
ただ、段差や階段は支えになるものがあると安心です。歩く時にはぎこちなさが多少あり、足が悪いことが見た目で分かる歩き方をしています。
就職活動を始めた経緯
私が就職を考え始めたのは21歳の頃。今から14年近くも前のことです。
実は、20歳の頃に子どもができ、結婚・出産しました。しかし、夫と折り合いが悪くなってしまい、調停へと発展。母親は重度の視覚障害、足にも障害があり社会に出て働いた経験がないということから親権を手放さざるを得なくなりました。
調停員から伝えられた「゙母親として親権を持ちたければ、その障害をカバーでき、子どもを安定的に養育できる環境と安定した収入を得られる力を身につけてください」という一言に落ち込み、実家で引きこもってしまいましたが「働いて子どもを自分の手で゙育てたい」という思いで一念発起し、就職活動を始めました。
情報がなかなか見つからない
最初はインターネットで「障害者・就職」などと検索しました。私が就職を考えた当時は、現在のようにホームページも、障害のある人の雇用事例も普及しておらず、検索をかけてもページはなかなかヒットしませんでした。そこで、ハローワークへ向かうことにしました。
私の地元は静岡県伊東市なのですが、地元のハローワークに相談しても、強度弱視の私が就職できるような会社はなく、ハローワークでの職探しを諦めて、情報を再びインターネットで探す日々が続いていました。
そんなとき、とある障害者雇用をサポートする企業のホームページを見つけたのです。なんとなく、さらさらと眺めていると東京で障害のある人を集めて行う大きな企業面接会実施の見出しを見つけたのです。
「これは!」
そう思い、とりあえず主催している障害者雇用をサポートしている企業にエントリーをしました。
東京と伊東の往復の日々
企業面接会の当日は、一人で実家がある静岡県の伊東市から電車と新幹線を乗り継ぎ、東京へ向かいました。当時は、ガラケーユーザーだったこともあり、Yahoo!やGoogleで地図なんて検索できませんでした。
駅の改札や乗り場がわからなくて尋ねてみても、指を指されて「あっちだよ」と言われたり、「視覚に障害があって見えにくいので…」と言っているのに、地図を出されて説明をされたり。合同面接会の会場にたどり着くだけで一苦労だったことを覚えています。
会場で渡された資料や申し込み用紙などを一通り書くのも大変でしたが、今思えば、「見えにくいので代筆をお願いします」と言うことをはじめ、できないことを誰かに打ち明けたり、手伝いを頼むということを知らなかった私は「自分の身のまわりで起こったことは、困りごとも含めて全部一人で解決しなくてはいけない」と頑張って(無理をして)いたような気がします。
ただ、そんな姿勢が伝わったのか、
「あなたはやる気もあるし、就職口があるかもしれないから。ぜひ、うちの会社でサポートさせてくれませんか?」
そう就職アドバイザーの方に声をかけられたことがきっかけで、その後の就職活動につながっていきました。
伊東から大変な思いをして足を運んだことで、声をかけてもらえた!就職も決まりそうかも!と思いましたが、そんなに簡単な話ではなかったのです。
面接の日時が決まるたびに朝早く実家から東京へ新幹線で通う日々。なかなか就職先が見つからず、結果として8カ月間、静岡県の伊東から東京まで足繁く通うことになったのです。
今のようにスマホもない時代、駅では先ほど紹介したような振る舞いを受け、そして、新幹線の往復交通費もシャレにならない中、節約のために1日3社もまとめて面接を受けていました。
就職活動が進んでいき、いろいろな会社に訪問したり、面接を受けたりしながら、だんだんと当時の私は、自分が法定雇用率を守るためだけの存在だと感じるようになっていきました。
しかし、一般社会の中で、たくさんの人たちにもまれながら、必要とされて評価されて働きたいという強い思いで、就職活動に臨み続けた自分を今は褒めてあげたいと思います。
次回は初めての就職が決まった後、1社目の会社でどのようなドラマが待ち受けていたか、まとめていきます。お楽しみに!
Text by
Masami Matsuda
松田 昌美
1986年生まれ。就活や転職を経験し、現在は視覚障害で文字起こしのパイオニア「元祖ブラインドライター」としてタレント活動をする。
NHKハートネットTV「ブレイクスルー」、レインボーダウンFM idobatanowなど出演多数。
■ブログ
https://profile.ameba.jp/ameba/fairyland0218/