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障害を負う前の場所にいてはいけないのか?

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2021.10.24

30年近く広告業界で休み無く働くうちに、急性心筋梗塞を発症して手術の合併症と後遺症から左半身麻痺の運動障害と高次脳機能障害が残ってしまいました。仕事漬けの毎日から一転、身体障害者になってしまってからのお話です。

執筆:市川 潤一

前回は私が身体障害者になった経緯をお話しました。

私は30年以上広告業界で休み無く働くうちに、いきなり急性心筋梗塞を発症して倒れました。一命は取り留めたものの、手術の後遺症で左半身麻痺の運動障害と高次脳機能障害を負ったのです。

今回は私が身体障害者になったときの職場の対応や、病院でのリハビリについてお話をしてみたいと思います。



世の中の大部分の人は脳卒中等の脳血管疾患についてよく知らないのだろうと思います。私も自分の身にふりかかるまでは、詳しく知りませんでした。

もしかしたら、身体に後遺症が残るだけでなく、私のように高次脳機能障害を発症してしまうと、その後遺症も一生残って、まともにコミュニケーションがとれなくなる…と思っているような人もいるかもしれません。

実際、私は「病前の能力は発揮できないだろうし、うちではもう面倒みきれないから。」という理由で、当時籍を置いていた会社から自主退職してくれと促されました。

当時の私の働き方が少し特殊で、元々はある会社で雑誌作りをしていたのですが、独立し、ライター・編集者・カメラマン・デザイナーなどを行うフリーランスとなりました。

フリーの時に一緒に仕事をしていた方が法人化したタイミングで、「給料は最低賃金だが、保険等を付ける。今までのフリーの時の仕事も続けていいから、うちの会社の仕事を優先的にやってくれ。」と言われ、その会社に籍を置くことにしました。

その会社に雇われていたというよりは、今で言うところのフリーランスと会社員のダブルワークをしている形に近いです。



入院している間、保険証を使わせてくれていたので、その点には感謝しています。

ただ、労務士の先生の書類を添えて、「あくまで手術中の事故であり、就業中の病気発症ではない」と傷病手当と失業保険を申請できないようにしていた上に、入院途中で保険証まで取り上げられた点については今でも納得はいきません。

その会社は当時法人化したばかりだったので、経済面や人手に余裕が無かったのかもしれません。身体障害者になった私がいるといろいろ面倒くさいと感じたのだと思います。実際辞めろという連絡がきたときも、嫌味を言われました。

私は当時、フリーランスで働いていたころからの習慣で、いざというときに相談できる弁護士の先生がいました。私は手術中の医療過誤だと思っていたので、「せめて入院代は支払わなくて済むようになる方法はないのか。」と相談しました。

その返答は、手術の同意書にサインをしてしまった時点でもうダメだし、自分も顧問をしている病院があるから、県の医師会にケンカを売りたくない、とけんもほろろに突き放されてしまいました。

公立の病院と争うと時間も金もかかるだけだから、その金と時間はリハビリに当てた方があなたのためだと。

言っていることはごもっともだと思います。基本的に脳梗塞等で麻痺した運動機能はほとんど回復することはなく、一生付き合っていくことになるというのが病院やリハビリ職の人たちの共通認識のようです。

たしかに、私は自分の働き方や不規則な生活のツケとして急性心筋梗塞を発症したのでしょうが、心臓ではなく脳に障害が残ってしまったのは手術が直接的な原因です。

私は病院に自分の人生がガラリと変わってしまったことの責任の一部すらも求められないのでしょうか。自分で全てを背負っていくしかないのかと。



開頭手術を受けた後は、体の左側がまともに動きませんでした。

私はペン以外が左ききだったのですが、少しずつ利き手を交換させていきました。右手でもご飯が食べられるようになり、病院のリハビリの専門職であるST(言語聴覚士)やOT(作業療法士)も舌を巻くほど右手が使えるようになりました。

頭の方も驚異的に回復していき、高次脳機能障害の弊害も順調に消えていきました。

「そう遠くないうちに企画を出したり、文章を書いたりといった編集者やライターとしての仕事に復帰して、また以前のように楽しく仕事ができるだろう。」と思っていたところで、会社から退職を促され、失業してしまいました。

もともとはフリーランスとして活動をしていたので、「また、フリーランスで一からやり直せばいいか。」と思っていたのですが、転院したリハビリ病院からは「退院したとしても重いカメラの機材を持っての移動や車の運転は認められないので、今までのように一人暮らしをして今までの仕事を続けるのは難しい。安全な生活を送るためにも、実家があるのなら実家に帰った方がいい。」と、伝えられました。

こうして、愛媛に来てから築き上げた、20年以上に及ぶ人脈やキャリアを全て捨てることになったのです。

私は当時やっていた雑誌や広告の仕事が本当に好きで、信頼できる仕事仲間も多くいたので、「これからもずっと、この地でこの仕事を続けていくのだろう。」と思っていました。

まさか自分が障害を負って、アイデンティティーや生きがいである仕事や仕事仲間をすべて捨てて実家に戻ることになるとは、想像もしていませんでした。

そのショックたるや大きく、リハビリ病院入院の後期は完全にメンタルもやられ、薬を処方され、窓のない個室に移されるほどの状態になってしまいました。

とはいっても、フリーランス時代に設備投資等で背負ったローンの支払いは無くなりません。この体でもできる仕事を見つけていかなければならないのです。

1975年生まれ。長崎県佐世保市出身・在住。愛媛県でライター・編集者・カメラマンなどとして活動していたときに脳梗塞になり、左半身麻痺の身体障害者となる。取材活動ができなくなり、ライターを廃業。障害者雇用の在宅ワーカーとなり現在に至る。障害者の仕事の仕方や見つけ方など自分の経験を紹介していきたいと思います。

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