社会とつながりにくい障害特性
~「きこえない」聴覚障がい者の孤独
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2021.11.3
このキーワードをきいてどう思っただろうか。
ひとり、でなく。
一人でもなく。
独り。
良い意味の独りと悪い意味の独りがあると私は考えている。
そして、また「選べる独り」と「選ばざるを得ない独り」もあるという現実をこの聴覚障がいで知った。
執筆:中川 夜 Yoru Nakagawa
りかいしたくても。
多かれ少なかれ人が普遍的に経験することすなわち、マクロで経験したもの(マクロコスモス)と、個人レベルで経験することすなわちミクロで経験したもの(ミクロコスモス)の大きさは等しいという尊敬する女性漫画作家さんの持論がある。
突然だが、この言葉には救われるなと思った。このひりひりするつらさも、大なり小なり、誰もが感じたことのある切ない痛みだよって共感と肯定してくれてるなって思えたから。
けども。
ことに、この障害は。
耳が機能しない。
だから、人の言葉、声、発語を拾えない。
ききたいのにきけない
“きこえない”という視点でありとあらゆる事象を捉えると、音声主義社会に生まれた時点でも、超ハード無理ゲーになる。
ただし、“ろう者”という、音声言語でなく手話言語を持つ人として、万象のもののことを見つめたら、楽になる。
なぜかと言えば、当たり前に、音を「ことば」に変換できるフツウが基準で、そのふつうを当たり前に享受できないのが聴覚障がいの特性だからだ。
重度難聴者として生まれた私が最初におかしいなと思ったのは、まず聴者文化に多く染まらさせられたからだ。これが良かったか悪かったかどうかは今でもわからない。
幼い頃は、たくさんの不思議だなぁということがあった。「なにか他と違うことがある」のは感じるけど、感知できない。
この不思議が「違和感」に変わるのは地域の小学校に通ってからだ。
すりぬけていく音や声
最初の「きこえなさ」で感じた違和感のエピソードは、進研ゼミのふろくについてためざまし時計だった。説明書を読んでアラーム設定したのに、鳴らない。
音がわからないのに、なんとなく鳴るというのがわかってたのはアニメなどで知った情報だと思う。
後で母に「鳴ってたよ」と言われて、釈然としない思いがあった。
それから、小学校でコミュニケーション上でいろいろなエピソードがあったはずなのだけど、ほとんどぼんやりしている。覚えてはいるのだけど、どれもこれも、「さびしくてかなしくもあったな」という印象なのだ。
具体的に形作って、書き留めようとすると、「その時の自分はまだ人間じゃなかった」と思う。
その時は、子どもだからそれはそうなのだけど、実感として、透明な存在のように思い出す。
学校でうまく言えないもどかしさを感じながら、独りでずっといて、家に帰ってやっと人心地を覚えては、毎日学校では独りだった。
コミュニケーションの疎通がとれなくなって、言いがたいストレスをためるようになると、勧めもあって、ろう学校に転校することになった。
そこで出会った同級生に10年近く長い片思いもするのだがそれは割愛する。
きこえないがコンプレックス
高校までろう学校になったのだが、いかんせん生前なにかやらかしたのかと思うほど、とことんうまくいかなかった。
手話というものを渋々覚えて、それなりにクラスメートと喋れるようになったけども、安穏の日々でなかった。
むしろ毎日考えることは、「楽して死にたい」だった。
人生の早い段階でこれだから、コミュニケーションの欠乏による自己存在意義の低下が、どれだけ影響を及ぼすか推してはかっていただけたらと思う。
理由としては、やはり人間は社会的に生きてるからだと思う。人とやり取りをし、相互に反応を貰って共生する。それで社会は現在進行形で発展し続けている。
適切で十分なコミュニケーションができない。そのまま社会との関わりを断って、独りで延々と過ごしてたら、あっという間に病んだという実体験がある。
音声がまともにきけない。
ききたいのに、きこえない自分を自虐に罰して続けてたら、脳から伝ってくる幻聴でもっとまともに生きていけなくなった。
病院で強制入院した時はさすがに人生詰んだと思った。
もう当たり前に生きていけないと思った。
その資格がなくなったと思い込んで、もう乾いた笑いしかできないというのはこの時思って、実際笑えなかった。
それでもやり直せた
いろいろなリハビリ機関を通して生きながらえて、もうきこえない音や声を理解しようとするのは諦めた。
ろう者として、「音がないのが当然」というていで生きるようになったら、なぜか理解者が現れた。
それが前のコラムで話した恩人。
その人から「いろいろな背景があって今の中川さんだよね」とやたら不安になったりネガティブになりすぎる性質をたくさんたくさん認めて貰って、「それならこう対応するか」と一人の人間として、大いに尊重してくれた。
“ここに私がいるということをわかってくれた。”
2年も経つけどあの記憶は忘れることないだろうと思う。
その記憶のおかげでまた人を信じられるようになった契機だから。
それを元にして、学生時代得られなかったコミュニケーションの回数を遅まきに重ねて、信頼関係を作ることを覚えた。
知人友人が、「中川夜」と認識して、覚えて貰ってつながっていく度に、生きやすさを覚えた。
なぜだろう。
つながりが増えていく度に、私を覚えてくれる度に、誰かと時間や空間を共有してくれる度に。
「自分というものは本当にいていい」
と思えた。
今までが欠乏状態だったので、コミュニケーションの方法や自分の軸が確立してない時、恩人以外の人にはそれはもうやらかしたものだが(それはだんだんマシになってきたけど)。
試行錯誤を重ねながら無理のないように人とつながれて、コミュニケーションして、社会に参加できてる実感が増えていって、とても救われているという確信は強まる。
つながれることは生きること
いろいろあった末だけど、どうにか生きて恥や苦悶で死にそうになりながら(いっそ恥ずかしさで人は死ねるなら今死ねると思うことも何度もあった)生きて良かったよなと思うほどになった。
人にちょうどよい塩梅で、依存して甘えて、頼られて生きやすさを覚える。
そういう方法で生きていいと教えてもらって、やはり人は人とのコミュニケーションに生かされていると思わざるを得ない。
そのコミュニケーションが相互にできてかつ安心できる関係性であればあるほど。
だから、手話があって良かったと思う。
そして、これから会うことになる理解者が手話者で良かったって。
そして、つながって人と思いや気持ちを伝え合えて、感情交換できる豊かさを知って、今日もこんな風にコラムが書けるということなのだなぁとしみじみ思う。