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意識高い系?障害者になって、政治は極めて個人的なことになった

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2021.11.4

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。先日、投開票が終わった衆議院選挙。政治について、選挙について語り始めると、なぜかいつも「意識高い系」と言われてしまう。しかし、そんな言葉で揶揄されることなのだろうか。障害者になった私にとっては「個人的なことは政治的なこと」なのである。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

「意識が高い/低い」と言われて、モヤッとしたことはないだろうか。私は「あなたは意識が高いよね」と言われ、複雑な気持ちになったことがある。

「それってどういう意味ですか」と、笑いでも交えてすかさず問えばよかったのだが、意図が見えないまま流してしまった。「意識が高い」という言葉にネガティブなニュアンスを感じとってしまったのは「意識高い系」という言葉があるからなのか。

「意識高い系」とネットで検索してみれば、「自分を過剰に演出するが中身が伴っていない若者(言い換えれば、虚栄心が強い)、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称」とある(Wikipediaより)。

その特徴として、自己啓発(ボランティア・政治)活動や人脈のアピール、流行のカタカナ語を使うなどが挙げられるとのことで、2010年代初頭に流行り始めた言葉らしい。

そもそも自分のことを「意識が高い」と思ったことすらないが、確かに、定義だけ読めば「意識高い系」の、おぼっちゃまくんに出てくるびんぼっちゃまくんのような、正面だけスーツで後ろは全裸といった上辺だけの演出は痛々しさがある(例えが古くてすみません)。

自分自身が自覚もなく他人からそう思われて嘲笑の的になっていたとしたら、とても恥ずかしい。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


衆議院選挙が終わった。結果を見て、私はがっかりする側の人間だったのだが、あなたはどうだろうか。

リベラルの敗北をTwitterで嘆くと「お前らリベラルは一生負け犬だよ。無駄なTwitterデモでしたね」と初期アイコンのアカウントからマウントリプライまで飛んできた。笑っちゃうなあ。

私のタイムライン上ではそれなりに盛り上がる選挙だが、蓋を開けてみればまったくそうではない。今回は戦後3番目に低い投票率55.93%だったようだ。特に若者の投票率の低さに、20代である私は驚かされてしまう。

社会人として、民主主義国の国民としての権利である前に義務であるくらいに思っているのだが、これって「意識高い系」ですか?

政治のことについて語ることを敬遠する、煙たがる風潮は子供の頃からずっと感じていたが、やはり「意識高い系」という揶揄する言葉が与える抑圧は大きいと思う。政治のことをそんなに知らない人間が政治を語ったり考えたりするなんて「意識高い系」なんじゃないか、と。

政治を語ると、口だけ出して何も行動しない人間に見えてしまうわけで、それは確かに「意識高い系」の定義に当てはまるように見える(代表制民主主義なので、口だけ出すのは当たり前なのだけれども)。


photo by August(https://twitter.com/a__ugust__us)


「個人的なことは政治的なこと」という言葉がある。

フェミニズム運動の中で生まれた言葉らしいが、私は障害者になったことによってそれに深く共感できるようになった。仕事で使われる言葉で例えるなら「当事者意識を持つこと」だろうか。

障害者になりたての頃の私は「普通」にこだわり、次々にぶつかるバリアの存在に気がついていなかった。進学や就職など、健常者なら普通にできるはずのことができない自分を責め、言いたいことも言えず、無理をして体を壊した。

しかし、健常者のように生きることは私にとっては難しいことなのだと認め、心と体に合った生き方を模索し始めてから、主体性を持った生き方に転向できたように思う。

そうする中で同じ問題に苦しむ人達がいることを理解することができ、そんな人達が一定数いる以上、私たちだけでなく、社会も変わるべきではないかと思えるようになった。自分ひとりの問題だと思っていたものが、実は社会の構造上の問題であるということに初めて気がついた瞬間だった。

社会というものがあり、その中で自分が抑圧されているマイノリティであることを自覚し、認めたとき、同時に自分が抑圧する側であるマジョリティでもあるということに気がつく。

「普通」であるということは、自分だけでなく周囲の人々の困りごとに気が付かずにいられることとイコールだ。それが果たしていいことなんだろうか、と今の私は思う。

そうやって、それまでは存在を意識することすらなかった社会に対する責任を感じるようになった。夫婦別姓やジェンダー平等、消費税率などの問題は私たちの生活に直結する極めて個人的なことだ。

それらを自分や周囲の問題として落とし込み、考え、解決を試みるとするなら、やはり投票に行かざるを得ない。誰しもひとり一票しか持ち得ないのだから、誰かが代わりになんとかしてくれることでもない。

政治を語ること、投票することは、抑圧された主体性を取り戻すことだと私は思う。何も「意識が高い」わけでもなく、まして「意識高い系」と揶揄されることでもない。

人権は与えられるものではなく、自らの内から湧いてくるものだ。そして私たちには、間違う権利もある。

「正しいものを選ぶ」「多数派のものを選ぶ」必要はなく、投票先は「私が決める」のだ。支持した政治家や政党が当選するか否かよりも、意思表示を行ったことに大切な意味があるのだと私は思う。

仕事でもそうだ。もちろん成果が出てこその仕事ではあるが、その過程に仕事をする実感があるものだ。実感とは生きていることそのものだろう。

人としての尊厳に気づいたとき、私たちの生きづらさはほとんど解決したと言ってもいいのかもしれない。なぜなら、あとは行動するのみだからだ。ということで、また行きましょう、選挙。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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