PARA CHANNEL Cage

虐待サバイバー同士の不幸度の比較の無意味さ。必要なのは断絶ではなく、手を繋ぐことだ。

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2021.11.10

「自分の努力次第で親の機嫌が良くなる家庭環境なら、楽でいいですよね」

その一文を目にした途端、ぐらりと視界が歪んだ。胃の底から酸っぱいものが込み上げ、堪らずトイレに駆け込む。便器に頭を突っ込むと、ぼくは激しく嘔吐した。

執筆:チカゼ

虐待、と一口に言っても、その実情はさまざまだ。「家庭」という密室の中で横行する暴力は、その数だけ形態がある。心理的虐待、ネグレクト、性的虐待、そしてぼくの受けた「教育虐待」。列挙し切れないほど多様で、それらが複雑に絡み合っているケースも少なくない。

そしてぼくの場合は、とりわけ虐待が顕在化しにくい家庭環境だった。父は人権派で有名な弁護士で社会的地位が高く、実家は都内の高級住宅街に門を構える。外からは「なんら問題のなさそうな、むしろ恵まれた家庭」にしか見えなかっただろう。

「お金持ちでいいわね、なんでも買ってもらえるんでしょう」と、よく子どものころ大人たちに言われていたのを、いまでも薄ぼんやり覚えている。あれはだれだったんだろう。学校の先生だったか、同級生のお母さんだったか、いずれにせよ嫌味を多分に含んでいたことは確実だ。ぼくは「はい」とも「いいえ」とも答えられず、ただ曖昧に笑ってその場をやり過ごしていた。

「お金持ち」だったら、「幸せ」なのだろうか。

たしかにぼくは、飢えの苦しみを知らない。寒さから身を守るための衣服に困ることはなかったし、雨風を凌げる場所で眠れるかどうかの不安も、味わったことはない。

それを「幸せ」と呼ぶのなら、父からの激しい折檻はすなわちその代償として引き受けねばならない宿命なのだろうか。

虐待の報道がなされるたび、そのイメージはステレオタイプ化してしまっている気がする。

子どもを連れて離婚したシングルマザーと、その彼氏。彼氏が家に入り浸るようになるにつれ、前の夫との子どもが邪魔に思えてくる。次第に手が出はじめ、最初は止めていた母親も、彼氏に嫌われることを恐れて制止できなくなっていく。そして暴力はエスカレートし、最終的には子どもが変わり果てた姿で発見される──「虐待」と聞いて世間の人々が思い浮かべるのは、おおむねこのようなストーリーだろう。

でも、現実はそれのみが「虐待」ではない。

冒頭の一文は、過去ぼくがnoteで書いたエッセイへのいわゆる「エアリプ」のようなものだった。そのひとの詳しい事情や背景は、まったくわからない。おそらく虐待サバイバーの方なんだと思う。

ぼくの受けてきた「虐待」は、だれかと比べたらまだ「楽」なのだろうか。深夜に父親や兄やあるいは弟がベッドへ入り込んでくるおぞましさや、衣食住が保証されない恐怖を実際に味わったことのないぼくは、虐待サバイバーの中でも「まだマシなほう」なのだろうか。そんなことはない。今ならはっきりと、そう言える。

かつてぼくも、物理的暴力のない心理的虐待経験のみを持つサバイバーのひとたちをどこか冷めた目で見ていた。「殴られなかったんならよかったじゃん、だって怒鳴られるだけだったら死にゃしないでしょうよ」と。その程度のことを「虐待」として語ってんじゃねえよ、と腹の底で他人の痛みを軽視して踏みつけていた。それがどれだけ愚かで卑しいことなのか自覚したのは、正直に言って、つい最近になってからだ。

常に罵声を浴びせられる環境の中で、その小さな心はどれほど竦んでいたのだろう。いないものとして扱われる寂しさは、どれだけ壮絶な孤独だったのだろう。身をもって経験していないくせに、当事者じゃないくせに、その辛さの度合いを勝手に決めつけて「自分より軽い」と断ずること。その行為がいかに残酷で浅薄なものであるか、少し前のぼくは理解しようともしなかった。

「楽でいいですよね」とぼくを鼻で笑ったあのひとは、かつてのぼくの映し鏡だ。便器に頭を突っ込みながら、ぼくはそのことを悟っていた。翻ってその台詞は、そのひとの保有する苦しみの凄絶さを物語っている。だからそのひとを責めることは、ぼくにはできない。

でも、ひとつだけ問いたい。不幸度を比較することに、果たして意味はあるのだろうか。自らの受けた虐待が、だれかより重くてだれかより辛かったのならば、その心は救われるのだろうか。

ぼくたち虐待サバイバーは、社会においてマイノリティだ。もっともこうして自身の体験を公にしているぼくのような人間は氷山の一角に過ぎず、実際はもっと大勢いる。それでも、少数派であることに間違いはない。だったら、その中での断絶は、いったい何を産むというのだろう。

ぼくたちは、手を繋ぐべきだ。この世から虐待を失くしたいと思うのならば、こんな思いをもうだれにもしてほしくないと望むのならば、根底の願いが同じならば、同じ虐待サバイバー内で不幸度を競っている場合じゃない。団結する必要はないけれど、連結は必要だ。一人じゃ届かない声も、しっかりと手を繋ぎあえば、それは間違いなく社会を動かす糧になる。

結局のところ、ぼくはぼくにしかなれない。そしてあなたも、あなたにしかなれない。ぼくはこの先もずっと、ぼくとして生きていくしかないし、それはあなたも同じなのだ。

虐待サバイバーのひと、現在も後遺症に苦しめられているすべてのひとへ。

自分の状況がだれかより酷くてだれかよりマシであるという、その確認作業はもうそろそろ、やめにしないか。その行為は、けっしてあなたを救いはしない。もしあなたがこれから先、自分らしく生きたいと切望するのならば。不幸度の比較ではなく、あなた自身の幸福を追求してほしい。

ぼくもときに他人が妬ましくてのたうち回っているけれど、ぼくもぼくだけの幸福を探し続けるから。だからもし、あなたさえよければ。ぼくはあなたと、できれば手を繋ぎたい。

Text by
チカゼ twitter note

1992年生まれ。ライター・エッセイスト。修士(学術)、専攻はジェンダー論。ノンバイナリー/バイセクシュアル・日韓露ミックス・教育虐待サバイバーのトリプルマイノリティ。法律婚をしたシス男性のパートナーと2人暮らし。永遠の憧れはジルベール・コクトー。珈琲とヘッセと猫が好き。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。

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