若年性パーキンソン病と診断された私の葛藤~2
〜子供たちの想い 前編〜
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2021.11.17
長女と長男はパーキンソン病を発症する前の私を知っています。
そして成長と共に、私の病状が進行していくのをずっと見てきました。
私自身、子供たちに対し出来ないことが増えていく中
「母親なのにこんなこともしてあげれない」
と、何度悲観的になったかわかりません。
病気という事実、母親であること…
そうやって自分のことしか考えていなかった私が、子供たちの心の中にある
「葛藤」気付くのは少し先になります
執筆:岩井 里美 Satomi Iwai
お母さん死ぬの?
パーキンソン病と診断され、割と早い時期に子供たちには伝えました。
子供に伝えるタイミングというのは、考え方や病状、子供が理解できる年齢か…などそれぞれ違うと思うので、正解はないと思います。
病気のことを伝えたのは長女が10歳、長男が8歳の時。
(2人同時に伝えました)
クールな長女は「ふーん」、心配性な長男はとにかく私が死ぬのかどうか気にしていました。
長男の反応は大体想像できていたので、きちんと話すと少し安心していました。
長女の反応は、私がもっと説明しようか?気になることないの?
と聞きたいくらいクール過ぎて寂しかったのを覚えています。
学校行事
診断されたのは12月、4月にはPTAの役員決めがあります。
子供たちが通っている学校では子供1人に対し1度役員になったらその後は基本的に免除になります。
パーキンソン病は進行していく病気なので、後になればなるほど役員を引き受けるのが難しくなるのはわかっていました。
そのため立候補し早めに済ませました。
PTA役員問題はそれで解決しましたが、定期的にある授業参観や懇談会は年々難しくなりました。
私自身周りからどう思われようと仕方ないと思えるのですが、そこに子供が関わってくるとそういうわけにはいきません。
実際子供と買い物に行っているときに、勝手に動く私の体を見て周りの人が笑ったり、驚いたりしていました。
それに気付いた子供たちの表情は文章では言い表せるものではありません。
恥ずかしさと、悔しさと、悲しさと…
その時、私ははっきり思いました。
これ以上子供たちと一緒に行動すると子供たちを傷つけてしまう。
いじめに繋がるかもしれないということはすぐに想像できました。
そして徐々に私が学校に行く機会はなくなりました。
これで良かったんだ。
体もキツイから「行かない」と決めてしまえば私も楽。
ジスキネジアと卒業式
※ジスキネジアとは、自分の意志とは関係なく、体の一部が不規則な動きする症状(不随意運動の一種)のことです。
長女の卒業式は主人が行く予定でしたが、諸事情で私が行くことになりました。
久しぶりの学校にドキドキしながらも途中で動けなくなっては困ると思って、少し薬を多めに飲んで参加しました。
卒業生入場の時、娘と目が合い嬉しそうに手を振ってくれたので私も思いっきり手を振ったのを覚えています。
今まで学校行事にあまり参加しなかったけど、卒業式は来れてよかった。
本当にそう思いました。
しかし、薬をいつもより多めに飲んでいたせいかジスキネジアが出てきました。
抑えようにも抑えることができないジスキネジアは人目を引きます。
卒業式終了後、グラウンドで自由に写真撮影がありましたが長女の表情はさっきと違い強張っていて、一通り写真撮影が終わると私と並んで歩くことなく家の方へ向かって1人で歩き出しました。
私はすぐにジスキネジアのせいだと分かりました。
「入学式はお父さんに行ってもらおうか?」
と言うと目を合わせることもなく
「うん」即答でした。
家では積極的に手伝ってくれる長女が初めて見せた姿…
ずっと葛藤してたんだな、と思いました。
家と学校という2つの世界しか知らない子供たち。
その小さな世界で自分を守るための行動だったのかもしれない。
普通のお母さんじゃなくてごめんね。
母親らしいこと出来なくてごめんね。
普通って何だろう?
母親らしいことって何?
後編へ続きます。
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Text by
Satomi Iwai
岩井 里美
1983年生まれ。パーキンソン病の社会的認知、就労支援、下着の製造、繋がり続ける教育の4つの柱を軸とした会社Limの代表(個人)。生きにくさを感じつつ楽しむこと、笑うことをモットーにしています。