障害があるなら「特別支援学校」や「特別支援学級」に通うべき?
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2022.4.6
障害を持っていると、特別支援学校や特別支援学級で学ぶことを勧められることも少なくない。けれど、自分の障害を考慮しながら、学ぶ場を選択する権利が私たち障害者にはあると、私は思う。
執筆:古川 諭香 Yuka Furukawa
周りの理解を得て地元の小学校へ入学することに
お昼寝の時間に寝汗をかいて、風邪を引き、体調が悪くなってしまうと怖いと両親が思ったため、私は保育園には行っていない。幼稚園から通い始め、小学校へ進学することとなった。
この頃の私は、根治手術だと言われている「フォンタン手術」を受ける前。日常生活はこなせるものの、激しい運動はできず、階段を登ると息切れしていた。
そんな私を幼稚園の先生たちは温かく見守ってくれ、小学校の先生と連携して、どうしたら私が普通の学校に通えるか考えてくれた。
そのおかげで、私はみんなと同じように地元の小学校に通えることになったのだ。
入学前には事前に親と小学校に行き、施設や私のできることを確認。階段の昇り降りは担任の先生がサポートしてくれることとなった。
幼稚園でできた友達と離れず、みんなと同じ学校に通える――。それは、自分にとってごく自然のことだった。周りの大人が色々考えてくれていることに子どもながら感謝と申し訳なさを感じたが、「特別支援学校」に通うという選択肢は自分の頭に浮かばなかったし、両親も考えていはいなかった。
入学予定の小学校から「うちには来てほしくない」と言われた
しかし、入学直前。通う予定だった小学校の教頭が我が家にやってきて、こう言った。
「障害を持っているなら、特別支援学校に通われたらどうですか?うちの小学校には、来てほしくない。」
私はその言葉を聞いて、「自分って障害者なんだ」と初めて理解した気がする。
すでに私の入学は決まっていたため、両親はすぐに学校に電話。すると、校長から「教頭が勝手に行動してしまったようで…。大変申し訳ない」との謝罪が。
私は予定通り、普通の学校に通えることとなったのだが、この一件で、幼いながらに自分が普通の生活をしようとすることに抵抗感を持つ人もいるのだと理解した。
そして、言葉を向けられたからこそ、障害を考慮した上で、障害者には自分らしく生きる権利があるのではないかと思うようになったのだ。
「個」として学校・学級選びをする権利がある
例えば、学びの場。障害の程度によっては特別支援学校や支援学級に通うほうが、その人にとって豊かで安心できる学びとなる場合はもちろんある。だが、逆に私のように普通の学校に通学したほうが当事者にとっては幸せな学びとなるケースだってあると思う。
私は小中高、大学とどれも普通の学校に通ったが、そのことに対して満足感がある。周囲の大人に障害が理解されず、歯がゆい思いをしたこともあったが、障害者ではなく、いち個人として私を見てくれ、仲良くなってくれる子がたくさんいて、そうした温かい世界があることを知れたのが、まず嬉しかった。
学校・学級選びは障害を持つ子や親にとって、第一難関だ。だからこそ、障害があるから特別支援学校や特別支援学級…というように短絡的に決めるのではなく、当事者の意見も踏まえつつ、自由に学校・学級選びができるような社会であったらといいなと思う。
もちろん、どれくらい周りに障害を理解・サポートしてもらえるか、どれくらい健常者と同じ生活ができるのかを考慮する必要はあるが、「障害を持っている」という事実だけが独り歩きしない学校選びができれば、学ぶ喜びは増え、学校生活は楽しくなる。生きることだって、楽しくなる。
まだ「差別」という言葉も知らず、目の前で大人たちが自分の入学に関して争う姿に心を痛める私に、「ぜひ、うちに通ってね。待ってるよ」と言い、障害ごと私を受け入れてくれた小学校の校長先生の言葉は温かかった。
そんな言葉を向けてくれた大人がいたから、私は今の私になれたような気がする。自分も大人と言われる年齢になった時、当時受けた優しさがより身に染みた。
誰かを障害で判断せず、個として向き合える大人が増えたら嬉しいし、私もそんな大人でありたい。