『成果』ばかり求められる世の中で生きていくには?
1 1
2022.5.25
当事者の私が言うと説得力に欠ける気がしますが、発達障害者には大いなる可能性があります。
しかし、発言すれば空気は凍るし、抜け漏れをいくらチェックしてもミスばかり見つかる。
そんな発達障害者に対し、困惑あるいは非難の目を周囲の人たちは当事者に向けがちです。
ところが、むしろ当事者たちはひときわ一生懸命に生きているものです。
執筆:いりえ(北橋 玲実)
多様性が叫ばれる世の中ですが、特に目に見えない障害に対する理解はまだ浅いように感じます。
発達障害者が健常者から求められているレベルでの期待に応えるには「当事者の並々ならぬ努力と気苦労」が必要ではないでしょうか。
たとえば、自分の思考の変化に振り回されず、目の前の相手に適度に目を合わせるように気を遣いつつ、広がってしまった思考をまとめて、過不足なく適切な言葉を選んで相手に伝える…ということがある程度できるようになるまでには、一定の修練とエネルギーを要します。
そして、どんな立場どうしの人であれ、「話がうまく通じない」「分かり合えない」というシチュエーションは枚挙にいとまがないでしょう。
お互いが選び合ったはずのパートナーシップにおいても「何で分かってくれないの!?」と思ったり、会社でも「君は余計なことばかりをするんだな」と言われたりと、相手のことを理解しようとせずに判断している場合もあるでしょう。
こうしたすれ違いの背景には、組織やマジョリティの考え方に個人を当てはめようとする文化があるような気がします。
障害者であるか、あるいはセクシャルマイノリティであるか、ということを叫ぶ前に、人として他人を見る姿勢を疑う必要があるのではないでしょうか。
同調圧力による単一の考え方で成長し、幸福をつかみ取ることができる時代はもう終わりつつあります。これまでのように「こうすることが正解」「これはダメだ」という常識じみたものを握りしめたままでは、前に進むこともままならないのです。
“常識”という言葉を使いましたが、私たちは知らず知らずのうちに人や人の考え方、あるいは真実かどうかの判断さえも“常識”に当てはめて考えることを選びがちです。
特に変化の激しくなったこの時世においては、目に見える成果や結果を急いてしまいがちです。売上や利益の数値だとか収入が無ければ生きていくことは難しいかもしれません。
ただし、それを短期ではなげうってでも目に見えない感情、思考、あるいはまだ結果が出ていない行動そのものに目を向ける忍耐力をもってこそ、特に「個人」の力を必要とする小さい組織においては大切なのではないでしょうか。
柿は1日で実をつけるわけではありません。日々手入れをし、時には風雨から守ってやらねば実をつけることはありません。芽の段階で刈り取ってしまえば、その後育っていくこともできなくなります。
たとえまだ目に見える結果が出ないとしても、その行動、あるいはその人自身の将来の可能性を信じることができれば、その人の可能性や成果を引き出すことはきっとできます。ひいては、自分自身に対する信頼、あるいは自信を取り戻し、人としての人生をより豊かにすることができると、私は信じています。