自分の治療を優先にすると決めたお話【前編】
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2023.2.27
以前は抱えきれないほどの仕事を抱えて、私自身の治療を優先できない状態が続いていました。
ですが、数年前からそういった状態を改め、治療を優先することを決意し生活を徐々に変えていきました。
治療を優先しようと思ったきっかけや、現在利用している制度、どのように環境づくりをしてきたかなど、今回は前編・後編に分けてお話したいと思います。
執筆:愛
数年前…自分の限界をとうに超えていた
以前は、自身の障害と病気を抱えながら、
- 自分の治療
- ワンオペ家事・育児
- 発達特性のある子供たちに合わせた生活づくりや勉強
- 子供たちの療育や定期通院
- デイ、支援センター、教育相談などそれぞれの支援先の通所、面談等
- その他の病気の通院
- 学校、保育園行事
- 結婚していた時は、旦那さんのお世話と時々お仕事の手伝い(後に離婚)
- 病気の両親のケアと通院補助
- PTA役員の仕事
- 自治会の仕事
- 働ける時はパート勤務、又は就労移行支援を利用し通所
- 資格取得の勉強
など、細かいことを挙げれば他にもやることはあり、明らかに自分で抱えられるものの限界をとうに超えている状態が長い期間続いていました。
もちろん時々家族が助けてくれる部分もありましたし、時期がずれていたりお休みできるものもちらほらありましたが、常に手帳は予定でびっしりでした。
その中で何が1番犠牲にしやすいかと言ったら、紛れもなく自分自身と治療でした。
定期受診もままならず、眠気の出やすい定時のお薬もその日の予定のために飲むことができないということがほとんどでした。
息抜きに出かけることもほとんどできず、病状は悪化していくばかりでした。
治療を優先にすると決めたきっかけ
度々酷くなる病状に、主治医から何度か入院を勧められることがありましたが、どうしても子供の預け先が確保できないので毎回断っていました。
その後、別居が決まり、旦那さんの分のお世話は緩和されましたが、既に病状は悪化していたのと他のやることは相変わらず。
そして、今から約6年前に限界がきて、とうとう緊急入院になってしまったことがあります。
その頃の病状は、希死念慮や自殺願望も通り越して、何が何だかの判別もつかず、記憶も意識も曖昧で、とにかくうつ状態が酷く進行していました。
急遽入院になったので、子供たちはその日のうちに児童相談所に引き取られ、保護所での生活の後、それぞれ里親さんのところでお世話になることに…
私は酷く酷く自分を責めました。
ですが、それでも変わらず自分の治療よりも、
「お金がかかるから早く退院しなきゃ…」
「早く退院して子供たちをお迎えに行かなくちゃ…」
そんな思いでいっぱいでした。
入院が決まり、一度家に荷物を取りに病院を出た時、私の母から電話がありました。
母「ママ入院になっちゃった…」
私「え…私も入院になっちゃったから…ごめん送ってあげられない…」
私の入院が決まった時間と同じ頃、同じ日に、がんで闘病中だった私の母も入院になりました。
そして、入院して5日後…母は亡くなりました。
葬儀の手配と手続きや遺品整理をしなくてはいけないため、母の家と病院を行き来する生活が始まりました。
入院していても結局治療どころではなくなり、
(母もいないし…私ももうダメかも…)
(こんなダメな母親の私よりも、施設にいた方が子供たちも幸せかもしれない…)
母が亡くなったことで、前向きな感情や生きる希望が更に無くなって余計に心が弱っていきました。
母が亡くなった日の6日後は私の誕生日でした。
病室で1人で迎える誕生日。
その日は偶然、子供の頃から大好きな方が出演されるテレビ番組が放送される日でした。
(最後にこれを観たら…もう私も母の元へ行ってもいいかもしれない…)
そんな思いで病棟に2つしかないテレビのうち1つを先に陣取って放送を待ちました。
放送開始直後、おばあさんが隣にやってきて、
「ニュース観たいのだけど、これ大事なの?」
と声を掛けてきました。
今までの私なら、そこですぐに譲ってしまうのですが、
「ごめんなさい、これ大事なんです…」
おそらくそんな風に人に断りを入れたのは初めてだったと思います。
誕生日の今日くらい…と、勇気を出して伝えた後も心臓がバクバクしていたのを今でも鮮明に覚えています。
そのおばあさんは、大切な家族を亡くしてうつ病で入院されていた方でした。
共通の思いをお話ししながら、番組を一緒に観ました。
番組が進むにつれ次第に笑みが溢れ、母が亡くなってから初めて心から笑っている自分に気が付き、加えてこんなことも思いました。
(この憧れの方を子供の頃からずっとずっと大好きなのに、ライブや観覧などでもたったの1度も会いに行ったことがない…。もし死ぬにしても…それからでも遅くないんじゃないか…?)
まさに、命を繋げていただいた瞬間でした。
放送直後、すぐに番組の観覧に応募をし、そして運良く当選。
その日に合わせて無理矢理退院しました。
そして直接憧れの人を目の前にした時、私の中で大きな変化が起こりました。
『憧れの人は本当に素敵な方でとてもとても輝いていて…
なのにそれに引き換え私はなんだ??
なんなんだ!?
病気も一向に良くならない。
たとえ病気だろうと、子供たちを置いていくのか?
その前にまだやることがあるんじゃないか?
今まで、家族のため、周りのためとやってきたけれど、その結果が今。
人の目を気にして断れない、無理をしすぎる…
がんばって引き受けて潰れても、誰も何も責任を取ってはくれない。
何より子供たちが1番悲しい思いをしている。
このままじゃダメだ、変わらなきゃダメだ!』
自分で自分のことが心から恥ずかしくなったのと同時に、このままじゃダメだ!と、心の中で強く決意の炎が立ち上がりました。
『子供たちを守るためには、まずは私自身の治療を最優先にして、私が元気になることが何よりも大切。
ケアが必要な子供たちを支える基盤をしっかりつくり安定させること。
そこからできることが、本来のできること。
母親は私1人。
母として子供たちを守るのは、私しかできない1番大切な大仕事。
申し訳ないけれど休めるところは休ませてもらわないと、また子供たちがバラバラになってしまう。
元気になって、他の仕事はその時にがんばる。
それまでは本気で私を回復させる!!!!』
そう心に決め、5年前にようやく私の治療を軸に置く生活を始めました。
でも治療を優先にしたからといって子育ての優先順位は下がりません。
ですから、今は一旦、その他からの退避が必要。
まずはとにかく【できる限り負担を減らす】ことを目指しました。
でも、これは本当に難しい課題でした。
何故ならそこには、自分が育ってきた過程も含め様々なことが影響してきてしまったからです。
その後についてのお話は、次回のコラム【後編】でお話したいと思います。