心の病を抱えて生きるわたしの物語~母と夫の死を乗り越えられるまで
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2023.5.3
はじめまして。山田彩緒と申します。今回は、わたしが統合失調感情障害躁うつ型を抱えながら歩き始めるまでの、ちいさなお話を書きました。
執筆:山田 彩緒
妹は電話の向こうで少し無言になり、お母さんが死んだと泣き崩れました。
わたしは弟に連絡し、2人で夜行バスに乗り込みました。バス停で会った弟は、「ひさしぶり」と微笑んで大きな手をあげました。これから母の死を確かめに行くというよりは、ただ里帰りをするような、そんな気がして夢をみているようでした。
バスの窓に流れる夜景を見ながら、わたしは2日前のことを考えていました。
母は仕事の休憩時間、毎日電話をかけてきました。一緒に暮らしていた妹が家出したと泣いていたときもありましたし(後に思い違いと判明)、たった一人出口のない“不安”という迷路をさまよい、泣くことしかできないのだと訴えているようでした。
わたしのどんな言葉も母には届くことはなく、「死にたい、みんなで一緒に死のうよ」と繰り返していました。母はうつ病でした。
そしてあの日、仕事が長引いてわたしは母の電話に出られませんでした。留守録には
「元気でね。また会おうね。」
とメッセージが残されていました。
それが母からわたしへの最期の言葉になりました。
実家で母と対面すると、まるで眠っているかのようでした。僅かに開いた口からは、息を吸うことも吐くこともありませんでした。なんの冗談でもなく、母は自ら命を絶ったのです。
火葬場で、妹は疲れ果てた涙を流していました。弟は淡々と雑務をこなしていました。長子のわたしは涙ひとつ、雨粒ほどの涙ひとつ流せないまま、立ち尽くしていました。
当時わたしは25歳。よく晴れた5月の終わりの日、確かに壊れ始めていました。
仙台から千葉へ転勤になり、忙しい日が続きました。
わたしはこの頃の記憶がとてもおぼろげです。考えることを放棄したわけではないのですが、母の死はそれだけのダメージだったのでしょう。
ただ強烈に記憶しているのは、仕事帰りに駅のホームで何度も電車を見送り、次こそ飛び込もうとそれだけを思っていたことです。
なかなか帰宅しないわたしを心配して、内縁の夫が電話をかけてきてくれました。とにかく帰っておいで、と。
そうしたことが何度もあり、メンタルクリニックへ行くことになりました。
診断は、うつ病でした。
薬を処方され、カウンセリングを受け、だんだんと調子が戻ってきた気がしましたが、深夜に暴食するようになっていました。味の濃いもの、板チョコやカップ焼きそばといったものでないと、舌が鈍くなっていたのか食べている気がしませんでした。
入浴も嫌になり、浴室の壁を思い切り殴る日が続きました。シャワーを浴びていると、母が自分勝手に死んだとか、仕事で蔑まれているとか、思い込みを含む嫌な気持ちがどんどん湧き出すのです。
ドンという大きな音がする度に夫は心配して見に来て、わたしの手をさすり「可哀想に」とうなだれていました。
言葉も荒くなりました。夫にはわたしの「気分」が悪いのか「機嫌」が悪いのかそのどちらもなのか区別がつかず、大喧嘩をすることが増えました。
楽しいことをしよう、とわたしたちは必死でした。栄養ドリンクを飲んで遊園地に行きました。頓服薬を飲んで夕方買い物に出るようにしました。朝起きるのがとても辛く、それでもアラームをかけて午前中には起きようと互いを励ましていました。
頑張って頑張って、一日をぶん回していました。
その後、会社を退職し、空き家になっていたわたしの実家に住むことにしました。
そこで通うことになった大きな精神科で、わたしはうつ病ではなく「統合失調感情障害躁うつ型」と診断されました。何か長い名前だな、としか感じませんでした。
どんな病名を貰っても、わたしはずっとこの悲しみの中にいるのだろうと思ったのです。
どんなに笑っていても、頭の片隅に悲しみがあります。母ともう会えないこと。町中ですれ違うことすらもないこと。何も話せないこと。肩たたきもできないこと。ごめんねも伝えられなくなってしまったこと。
母がいないということは、思い出の中の“家族”には戻らないという、当たり前の現実を突きつけてきました。
2年前。内縁の夫が亡くなりました。
わたしは今度はたくさん泣きました。泣いて眠るだけの日々を繰り返しました。
夫の忘れ形見となってしまった犬と猫のためだけに生きていました。わたしの状態を見て、親切な人が「犬と猫を保健所に連れて行こう」と言ってくれましたが、わたしはそのとき激怒して追い返してしまいました。
もう何も奪われたくなかったし、もう何にも不幸になってほしくなかったのです。
全部は受け止めきれなくても、背負うものから目を逸らしてはいけないと思うようになり、まずは日記を書きました。
遺言のつもりが、案外のどかなものになりました。
そんなとき、SNSで詩と出会い、詩人と繋がりました。詩を通して、わたしは背負った悲しみを言葉に託し、母と夫への想いを綴ることができました。
「統合失調感情障害躁うつ型」という長い病名を抱えながらも、詩を書くことで心の平穏を取り戻し始めました。
母と夫への浮世報告書として、今もそしてこれからも、わたしは詩を書いて生きていきます。
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Text by
山田 彩緒
1985年生まれ。販売員経験6年。その後うつ病、統合失調感情障害躁うつ型へ。現在は猫と犬とともに、ゆるやかな日々を過ごす。