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文化系重度障害者から見えるパラリンピック②パラリンピックとはなにか

2021.8.26

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。先日から始まった東京パラリンピックについて、運動音痴で陰キャな文化系重度障害者という立場から考えてみたい。パラアスリートたちを見て、あれが「障害者」であると思われてしまうのはなんだか違うのだ。

執筆:豆塚 エリ Eri Mametsuka

今月24日、ついに開幕した東京パラリンピック。しかしオリンピック後のコロナ感染拡大はとどまることを知らない。菅首相はオリンピックと感染爆発の関連は否定しているようだが、オリンピックに引き続き、パラも原則無観客での開催と決まった。

先日、「障害者と家族の生活と権利を守る都民連絡会」という障害者団体が東京パラリンピックを中止し、コロナ対策に全力を挙げるように東京都に要請をしたということがあったようだ。

「障害者と家族を困難に陥れる。入院制限は命の選別が起こりかねない」と撤回を要求した。

障害のあるアスリートを世界から集めるのは基礎疾患を持つ人や、人との接触を密にせざるを得ない種目が多く「あまりにも大きなリスクを伴う」ことを指摘。

私も呼吸器系の機能の弱い障害者のひとりでもある。出来ることならコロナ感染は避けたい。重症化は免れないだろう。東京都のように入院制限のある都市に暮らしていれば、万一のことを考えるのも当然のように思う。



しかし、パラアスリートにしてみれば、パラ競技に光の当たるまたとない機会だ。開催が決まってほっとしている選手も多いのではなかろうか。もし私が当事者であれば、口には出さないかもしれないが、開催決定を喜んだかもしれない。

日本オリンピック委員会はパラアスリートたちの雇用をあっせんする就労支援サービスを展開してきた。2013年に初採用されてから、その後パラアスリート雇用のニーズが高まったようだ。

平成28年に改正された「障害者雇用促進法」もその後押しになっていることだろうが、何よりも、パラリンピックの自国開催が追い風になっているはず。

しかし、採用後企業から契約解除をされた選手も少なからずいるようだ。コロナ禍による企業の業績悪化や同じくコロナによってのパラリンピックの宣伝効果の低迷などが要因らしい。開催の1年延期も痛手になっているよう。

障害というハンディがある状態で、仕事と競技の練習を両立させるのは個人の力では難しい。企業の支援があるからこそ、安定した収入と十分な練習ができる環境を得られている当事者は多いのではないか。障害のせいでそもそも仕事を得ることすら大変な身からするとやはり、同情はしてしまう。

個人的にそんな二律背反を抱えながら開催を迎えた東京パラリンピックだが、そもそも、パラリンピックとはなんだろう。

パラリンピックとは障害者のためのオリンピックである、と言う認識が一般的ではないだろうか。私もそう思っていた。

しかし「障害者」は一括りにするのはちょっと無謀じゃないかと思うくらい、多種多様だ。ということでパラリンピックの歴史について色々と調べてみたので、一緒に勉強しましょう。



発祥は1948年、ロンドンオリンピック開会式同日にイギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会とされる。

先の第二次世界大戦で負傷し脊髄損傷となった兵士たちのリハビリとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたものらしい。それまで、脊損はまだ死亡率の高い障害だったが(一次大戦まで、受傷後2~3ヶ月で80%が死亡したという)、第二次大戦後、リハビリは急速に発展していき、社会復帰も徐々に可能になっていったとのこと。当時の当事者たちの絶望を思うと、スポーツは生きる希望そのものだったのではないかと想像できる。

大会当日、車いすを利用する入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われた。競技大会開催を指揮したストーク・マンデビル病院の医師であったグットマン博士の野望は大きく、その後1952年には国際大会になった。

1960年、戦後初のオリンピックが開催されたローマで、第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催される。この大会が現在、第1回パラリンピックとされている。第2回大会は1964年に夏季オリンピックが開催された東京で、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として行われた。「パラリンピック」という名はすでに東京大会で愛称として定着していたようだ。

1976年トロント大会で、それまで脊髄損傷だけだった参加に切断と視覚障害が加わる。1980年アーネム大会では脳性麻痺が。1988年、ソウル大会より、正式名称が「パラリンピック」となる。国際オリンピック委員会が当大会に直接関わるようになったのもこの年で、翌1989年に国際パラリンピック委員会が設立される。

それまで身体障害者のみの参加だったが、1996年、アトランタ大会において知的障害部門の参加が認められる。その後、種目採用の拡大が行われるようになった。

2000年シドニーオリンピック時にIOCとIPCの間で正式に協定が結ばれ、オリンピックに続いて開催されることが正式に義務化された。前回のリオデジャネイロ大会の参加国数は159カ国、参加人数は4342人。たった16人から始まったこの障害者スポーツ大会はいまや世界最大級だ。

パラリンピックの名前の由来はパラフレジア(脊髄損傷などによる下半身麻痺者)+オリンピックの造語であったとされるが、その由来ははっきりしていない。のちにパラレル(並行する、もうひとつの)+オリンピックという意味付けが公式になされた。

知的障害者は一部参加が認められているが、聴覚障害者、精神障害者の参加は出来ない。知的障害者にはスペシャルオリンピックス、聴覚障害者にはデフリンピックという組織も運営もまったく別の大会が存在している。精神障害者の国際的なスポーツ大会は今のところ存在していないようだ。

そう、成り立ちからもわかるように、実はパラリンピックはすべての障害者を包括しているわけではない。

デフリンピックを主催する国際ろう者スポーツ委員会はパラ組織委員会が発足した1989年には組織委員に参加していたが、1995年に脱退している。コミュニケーションの問題や、デフアスリートの中にはオリンピックでのメダル獲得者がいるなど身体的には障害者ではないために扱いが難しいといった問題があるようだ。そのためパラリンピックにデフ種目は加わらなかった。

多様性を理解するきっかけとなりはしても、これが全てではないというのが現状だ。パラリンピックはあくまで身体障害者のスポーツ祭典だ(一部知的障害者の参加は認められてはいるが)。

たとえ「身体障害者」であっても、多くの重度障害者にはほとんど縁がないだろう。競技を続けるのだって、よほどの情熱と努力、恵まれた環境がなければ難しい。パラリンピックは本当に一握りの身体障害者エリートのものであるのは間違いがない。

しかし、実際にプレーすること、観戦することによって障害への理解を深めるのにこの上なく役に立つ装置であるのも確かだ。スポーツの持つ力は計り知れない。メディアの発信を見ても明らかだ。あれほど障害者が大きく取り上げられることは他にない。



前回の記事に触れたように、実際にリハビリの延長でパラスポーツに取り組んだことがあるが、リハビリ以上の意味があったし、魅力もあった。それに多くの人が見て触れて楽しむことが出来る機会をわざわざ否定することもない。

でも、パラアスリートたちを見て、あれが「障害者」であると思われてしまうのもなんだか違う。選手が悪いわけではないが、パラリンピックによって彼らだけ華美に目立ってしまうのも、また違った問題になり得るのである。

リオ大会では障害者のことを「スーパーヒューマン(超人)」として位置づけ、多くの人々の心に揺さぶりをかけた。英テレビ局・チャンネル4のCMは有名である。結果、それは功を奏したわけだし、CMを観て感動する私もいたことは確かだ。



しかし、私はどうしてもそこに、一抹の受け入れがたさを感じてしまった。超人である前にまずは人として認めてほしい、と。

続く東京大会のためのCMでは「スーパーヒューマン」の「スーパー」の部分をボッチャの玉が打ち壊す演出がなされた。

日本のメディアは「障害者」をどう切り取るだろうか。仕事を得るのもやっとな文化系重度障害者のパラリンピックに対するもやもやは尽きない。

1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。
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